雑談 河井継之助

町奉行


08766/08766 QYK10262 春秋 雑談 河井継之助 町奉行1 (15) 00/04/16 16:23

こんにちは、春秋(はるあき)です。

大部、間が空いてしまいましたが・・再び始めます。(^^ゞ

 1866年11月、継之助は町奉行も兼任することになりました。郡奉行の際の仕事ぶりが評 価されたものでしょうか、この頃は、ますます藩主からは信頼されいったようです。 長岡藩の町奉行がどういうものか知りませんが、おなじみの江戸の北町奉行の遠山の金さ んや、南町奉行の大岡越前のテレビドラマ等で見る限りでは、町奉行は非常に大きな力を 持っているようです。 現代に置き換えて見ると、役人を使って犯罪者の取り締まりを行うのは警察、犯罪者を裁 くのは司法(裁判所)、更に町民に対して御触れを出すのは市長と市議を兼ねたようなも のになるでしょう。 地域的・限定的ではありますが、司法・行政・立法いずれの権限もありそうです。

 河井継之助は郡奉行の時と同じように、矢継ぎ早に改革を押し進めていきます。また、 そのやり方は、人を驚かせるような派手さがあります。しかしながらその内容は、あくま で武士の中でという枠組みはありますが、制度の基本的なところまでも変えていくという、 最も困難を伴うものです。 

0/4/16(Sun) QYK10262 春秋


08794/08794 QYK10262 春秋 RE:雑談 河井継之助 町奉行2 (15) 00/04/19 03:34 08766へのコメント

検断3人を蟄居にする
 河井継之助は町奉行に就任して3日目に、3人の検断を奉行所に呼び出しました。 当時の長岡城下の町の行政は、村の場合の、割元(大庄屋)ー庄屋ー百姓と同じように、 検断ー町老ー町代ー書役ー町人となっています。 長岡の城下には20の町がありましたが、それを表町組、裏町組、神田組の3つに区分け して、それぞれを統括するものとして検断を置いていました。いわば町奉行の基に、町人 の自治のトップとして検断がありました。 この検断には豪商がなっていましたが、藩から禄が与えられ、旅行の際には帯刀を許され るという特権もありました。またその役割は、藩の税金の徴収や戸籍の変更、家督の相続、 風俗の取り締まり、犯罪の予防等と町民の生活に直接関係するもので、しかも広範囲に及 んでいました。 江戸時代は貨幣経済が進むに連れて、商人の力が大きくなってきますが、長岡の検断は、 豪商が世襲制でなりますから、自然に力が大きくなっていきます。そうすると生活も、金 に任せて派手で贅沢なものになったのでしょう。さらには、豪商ですから藩財政にある程 度の寄与をしていたと思われますので、そういう驕りも出ていたのでしょう。
 呼び出した3人の検断には、そのものたちは驕奢で身をわきまえず、いかがわしき所業 もあるように聞こえる。重々不埒のことに付き、死罪にも申しつけるところ、旧家(いま までは良い行いもあったの)であるので、検断の職を取り上げ、蟄居を命じました。3人 ですから、全ての検断を処分したということになります。一般の町人から見れば、凄い権 限を持った人が、一挙に処分されたのですから、大変なショックを受けたことでしょう。  さらに翌月、検断の処分にも係わらずに、相変わらず派手な生活を送っていた町人を捕 らえて、追放の刑にしました。

参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著

0/4/19 QYK10262 春秋(はるあき)


08844/08844 QYK10262 春秋 RE^2:雑談 河井継之助 町奉行3 (15) 00/04/22 20:16 08794へのコメント

割元と庄屋にご馳走をする

 ある日、河井継之助は割元と庄屋を自宅へ招待しました。割元や庄屋が、町奉行から招 かれ、ご馳走を振る舞われるなどということは前代未聞のことでした。この予想もしてい なかった招待を、単純に喜んだものも居たでしょうが、何となく変に思った者もいたこと でしょう。 集まった皆に料理を出す際に、河井継之助から挨拶がありました。 今日お集まりの各々は、常日頃から美味しい者を食べ慣れているようだから、今日は特別 に、我が家の手料理をご馳走しようと思う。遠慮なく食べていってほしい。 そして、出された料理は、豆腐のおから汁と大根の煮付けだけでした。町奉行の日頃の食 事がこれであるからよく見て置け、というのでしょう。 あとは皆が食べるのを、あの鋭い目で見回していたのでしょう。過度の贅沢は許さないと いう、継之助の決意を知らしめるための一種の脅しでだと思います。何をしでかすか分か らないといわれていた、継之助のことですから、それなりに効果はあったことでしょう。

 ちなみに、河井継之助は大根飯(さくら飯)が好物だったと言いますから、 上のような献立はごく自然だったのかもしれません。

参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
   「良知の人河井継之助」石原和昌著

  0/4/22(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)


08848/08848 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 町奉行4 (15) 00/04/23 05:05 08844へのコメント

寄場(よせば)を創る

 罪を犯した者でそれが軽い人用に、新たに寄場を造りました。 一般的に、江戸時代の牢屋はその環境が劣悪で、その為に受牢している間に病気になり、 死亡する者が非常に多かったといいます。 継之助は寄場を、罪を犯した者に教育を行う場として考えていました。収容者は、髪を 五分刈りとし着物も紅殻染めのものを着せ、直ぐ分かるようにしたうえ、日中は、自分 の得意な労働をさせ、一般のところからの求人にも応じました。労賃は通常の半値とな っていて、寄場を出るときまで積み立てていました。 夜は収容者を集め、寄場長が心学本を読み聞かせて、道理を説きました。心学とは、 「江戸時代の中期から末期にかけて、庶民のあいだに行われた道徳教育。儒教・仏教・神道 の教えを巧みに融和し、平易なことばやたとえによってその実践をといた。」(学研国語 大辞典)ということで、読み書きの出来ない人にも分かるようにと、採用されたもので した。 また、収容者には特に刑期を決めずに、改悛の情が現れれば、放免しました。 さらに、寄場の出入りも比較的に自由にし、夜は自分の家や親戚の家なら出かけても良 いことにしました。しかし翌日の朝(午前4時)までには必ず戻るようにしました(戻 らない者は打ち首)。
 この寄場の長には、当時25才の外山脩造が任命されました。脩造は領内の庄屋の息子 ですが、かつて江戸で塩谷宕陰(継之助の山田方谷への紹介状を書いた人)のもとで学 びました。そこで三島中洲と知り合い河井継之助の話を聞き、帰国してからは継之助の 教えを受けるようになったものです。 この寄場の近代的な制度は、場長の外山脩造の若い考えと働きとが大きく寄与したもの と思います。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著

0/4/23(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


08879/08879 QYK10262 春秋 RE^4:雑談 河井継之助 町奉行5 (15) 00/04/25 05:01 08848へのコメント

賭博の禁止

 河井継之助の性格から考えると、勝負事は相当強いようです。対人折衝を見ても、気 合いで一気に行きます。勝負事に強い人に、多いパターンです。 しかしながら、継之助は正業でないとして賭博を嫌っていました。 もちろん長岡藩でも賭博は禁止されていましたが、賭博を取り締まる役人(目明かし) は俗に言う、二足の草鞋をはくものが多かったので、一方では公然と博打をやっていま した。そんなわけで、賭博禁止令はあるものの、実行されていませんでした。
 しかし、継之助は断然賭博禁止を決意します。領内の博徒に対して賭博を禁止するこ とを伝え、ついてはサイコロや花札等の賭け道具を、指定した日に奉行所へ差し出すこ とを命じます。 当日集まった博徒の前に、村松忠治右衛門と共に顔を出し、賭博がいかに世に中を悪く しているかを説き、持ってきた賭け道具を取り上げ燃やしてしまいました。そうして、 今後賭場を開くようなことがあれば、厳罰に処する旨を言い渡しました。 一方で、目明かしなどが博打を禁じられたために、生活が出来なることの無いように、 目明かしやその子分に手当米を支給するこにしました。

 そうはいっても、長年行ってきたものです。直ぐに止めるのは難しいものです。 継之助はさらに、自分で実地にそれを確かめに回ったと言われています。 栃尾の在に、勇蔵という博徒がいました。ある日一人の旅人がやってきて、賭博をやら せてほしいと頼みました。しかしこの勇蔵は、賭博禁止令を境に賭博をきっちり止めた 人でしたので、断りました。しかし、旅人はそれでも執拗に粘ります。勇蔵は少しムッ としたが、草鞋銭としてお金を包んで渡し、よそでやるように言いました。 実はこの旅人が河井継之助で、後日、この草鞋銭と共に町奉行のお褒めの言葉が、勇蔵 に届けられました。中にはこの継之助の手に見事に引っかかって、捕らえられた博徒も いて、その噂が博徒を恐れさせ、賭博から手を引かせたと言います。まるで、テレビの 遠山の金さんのような活躍です。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
  「愛想河井継之助」 中島欣也著

0/4/24(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)


08888/08888 QYK10262 春秋 RE^5:雑談 河井継之助 町奉行6 (15) 00/04/26 02:50 08879へのコメント

妾の禁止

 継之助は、妾を持つことも禁止しました。華美な生活になってしまうのを、防ぐとい う意味があったのでしょうか。 これにも又、遠山の金さん並のエピソードが伝わっています。
 禁制を知りながら、それを無視して古志郡のある庄屋が長岡の女郎の身請けをしまし た。その噂を聞いた継之助は、今度はその女郎の引っ越しの当日に、荷物運びの人夫と して働きます。引っ越しの仕事を終えると、雇い主の庄屋は上機嫌で日当を払い、さら に振る舞い酒をもご馳走しました。継之助も何食わぬ顔で、日当を貰って帰ります。
 そして後日、庄屋宅には奉行所から呼び出しがきます。 奉行所の、妾禁止に違反したとの取り調べに対して、庄屋は知らぬ存ぜぬを繰り返して 白をきります。お上には確かな証拠でもあるのかと、不貞不貞しい態度をとったその時 です。継之助の御奉行様の登場となります。 そして、とぼける庄屋の前で、先日貰った日当を見せつけ、「これでも白をきるのか!」 と凄まじい気合いと共に鋭い目で睨み付けます。 正に遠山の金さんが、入れ墨を見せるのと同じようです。
 継之助にはこういった逸話が多いといいます。何をするか分からぬ、とんでも無い男 との印象が強かったからでしょうか?

参考「愛想河井継之助」 中島欣也著

0/4/25(Tue) QYK10262 春秋(はるあき)


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