雑談 河井継之助

御奉行格


08980/08980 QYK10262 春秋 雑談河井継之助 御奉行格1 (15) 00/05/06 05:37

1867年3月10日、河井継之助は寄合組に列し、江戸詰となります。当時長岡藩では、武 士は大きく分けると12階級になっていました。寄合組はその一番上の階級で、家老、中 老、御奉行などがこの中に入っていました。 ついで河井継之助は、翌月の4月に御奉行格になりました。河井継之助41才のことです。 これでようやく継之助も、藩政の全体を行うところまで出世したことになります。現在 の会社でいうと、会社経営に参加しその責任も負う、取締役になったというところでし ょう。 公用人から始まって役員にまでのスピード出世は、もちろん藩主の信頼が厚かったこと が一番でしょうが、時代の早い動きも大きく関係しているようです。 遡れば、前年の1866年7月には、将軍家茂が大阪で亡くなっています。当時、長岡藩主 は長州再征を行うための幕府の命令により、前年より大阪に藩兵を率いて待機していま した。しかし翌月の8月、将軍の死により一橋慶喜が徳川宗家を相続し、同時に休戦の 沙汰を出しましたので、長岡藩主も長岡へ帰ります。藩主等が大阪で、急変する世の中 を感じたことも大きかったのではないでしょうか。 さらにもう一つ、長岡藩が抱えている問題があり、それを継之助に解決させるために、 相応しい資格を与えた一面もあったようです。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著

0/5/6(Sat) QYK10262 春秋


08987/08987 QYK10262 春秋 RE:雑談河井継之助 御奉行格2 (15) 00/05/07 04:02 08980へのコメント

 河井継之助を待っていた問題とは、小諸騒動です。 長岡藩には、次の4つの支藩がありました。
1 常陸笠間藩 8万石(日向延岡より入封)
2 丹後田辺藩 3万5千石
3 信州小諸藩 1万5千石
4 越後三根山藩 1万1千石
 笠間藩主とは長岡藩主の老中辞任をめぐって激論し、その為継之助は辞任したことも あります。笠間藩と田辺藩は徳川氏より、別に取り立てられたものであるが、小諸藩と 三根山藩は、長岡藩の初代牧野忠成の次男と三男が、分地されたものです。 、小諸藩と三根山藩は宗家である長岡藩に見習うことが多く、政治向きについても、色 々伺いを立てたようです。
 この小諸藩に、世継ぎをめぐって内紛がありました。 1863年6月、9代小諸藩主牧野康哉が亡くなります。長男の康民は既に世子となっていま したが、長男の康民と次男の信之助を担ぐ派があり対立しました。結局、10代目藩主は 順当に長男の康民が継ぐことになりますが、対立の根は残りました。 その後、次男の信之助派が、藩主となった康民の夫人をも取り込んで巻き返しに動きま す。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著

0/5/7(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


08994/08994 QYK10262 春秋 RE^2:雑談河井継之助 御奉行格3 (15) 00/05/07 22:31 08987へのコメント

 信之助派は家老の真木要人を仲間に入れ、反対派の家老の牧野隼之進、家老の加藤六 郎兵衛、要人の村井藤左衛門を中傷する噂を流し、又夫人の口からも藩主へ同人等の讒 言が囁かれたことでしょう。 藩主康民も、讒言を信用してしまいます。ついに、上記3名の出仕差し止めにします。 出仕差し止めにして置いて、本格的な処分を行うつもりなのです。 しかしながら、上記3名は小諸藩の重役ですので、重役3名の一時の処分ということに なれば、当然宗家の長岡藩へお伺いをたてねばなりません。 信之助派の牧野十郎兵衛、太田宇忠太、真木要人等は処分の了解を長岡藩に願い出ます。 しかし長岡藩主牧野忠恭は、不審に思ったのでしょう。追って沙汰すると言ったきりで、 決定をしないでいました。そうこうしている内に、幕府の2回目の長州征伐が始まり、 長岡藩も小諸藩も幕府から出兵を命じられます。 処分が何時になるかも分からないと見た信之助派は、自分藩の責任で処理したいと許可 を願います。宗家長岡藩は、なるべく寛大に処理して災いを残さないようにするならば 認めることにしました。
 しかしながら、恨みのある反対派の処分です。寛大とは、ほど遠いものになりました。 重役3名は役職を免ぜられた上に、禄まで削られました。さらに牧野隼之進、加藤六郎 兵衛の二人は隠居させられました。加藤六郎兵衛は、最も恨まれたと見え、その上に蟄 居と面会制限、屋敷は没収され、替わりに与えられた屋敷は崩れかかったあばら屋とい う、見せしめにされました。 これにより小諸藩内の空気は、更に悪くなり、宗家の長岡藩へ訴え出る者も出る始末に なります。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
  「愛想河井継之助」中島欣也著

0/5/7(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


09072/09072 QYK10262 春秋 RE^3:雑談河井継之助 御奉行格4 (15) 00/05/14 16:56 08994へのコメント

 このように混乱してきた小諸藩の内紛ですが、その解決を任されたのが継之助です。 実は、継之助が任命される前に、花輪馨之進に話があったようですが、「自分では上手 く解決できる自信がない」と言って辞退し、河井継之助こそ相応しいと推薦しました。 花輪は継之助の仲間ですので、継之助を長岡藩の中枢の役員にする良い機会だと思って のことでしょう。 河井継之助は、もめ事も解決には、それなりの実績もあります。こうして継之助が解決 に乗り出します。

 最初に文書で、今回処分した重臣について本藩で再調査したい旨を伝えました。それ に対して小諸藩主の牧野康民は重臣と相談の上、「今回の処分については本藩から任せ られて処理したもので、適正に行っていて何の問題も起きていません。したがって再調 査の必要はないかと思います。」と答えてきました。 しかし、藩主の牧野忠恭は、自分が言ってやったような寛大な処分が行われていないと 不満でした。 そこで、1867年6月2日長岡藩主の牧野忠恭は、小諸藩主を呼び出します。牧野忠恭の側 には河井継之助が座っていて、小諸藩主の牧野康民に鋭い質問を浴びせます。かつて、 笠間藩主にも言いすぎて役を外す羽目になった程の継之助です。この時には、藩主の公 認でもありますので、ずけずけとものを言ったと思われます。 しかしながらただ話すだけでは、埒があかず、また、いったん行った処理を覆すことの は出来ませんでした。 そこで継之助は、藩主から全権を任せられた上で、直接自分が小諸まで出かけて行って 処理することにしました。

参考「愛想河井継之助」中島欣也著
  「河井継之助」  稲川明雄著

0/5/14(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


09162/09163 QYK10262 春秋 RE^4:雑談河井継之助 御奉行格5 (15) 00/05/20 17:57 09072へのコメント

 出発する前に、小諸藩の太田宇忠太を藩邸に呼び出し、事情聴取をしました。 継之助の鋭い質問があり、太田宇忠太の弁明もボロボロになったようで、処分された3名 は、冤罪であることが分かったようです。

 1867年9月14日 河井継之助は江戸を出発します。従者は二人だけという身軽さです。 同月17日小諸に着き宝蔵院を宿所として、早速、調査を進めます。
 やがて、23日に謹慎中の牧野隼之進から事情聴取をして調査を終えます。 そして当日に、早速処理を行います。 前に処分された3名の重役については、禄高も役職も元に戻します。その上、牧野隼之進 には、20石の加増をします。しかしながら、3名を処分した真木要人派の処分については 不問とし、処分は行いませんでした。 そうしておいて、継之助は元に戻した家老の加藤六郎兵衛、要人の村井藤左衛門の二人 には、藩主の面目を立てるために自ら辞職するように説得します。二人は、継之助の説得 を理のあるものとして聞き入れ、10月3日に辞職します。 筋は通すが、双方ともに、面目が立つようにしたと言えるでしょう。
 しかし、人間の恨みや妬みはそう簡単には消えません。この解決が根本的なものではな いことは継之助も知っていて、後日にキチンとするつもりでした。しかしながら、翌年始 まる戊辰戦争のため実行はされませんでした。

 これまで見てきた継之助の紛争の解決方法は、今回のと大体同じようなやり方です。他 の人には出来なくて、継之助には何故出来るのでしょうか?人間的な魅力と、物事を押し 進める迫力が違っていたのでしょうか。公明正大に理屈を説き、その処分は情によるとも 言えるようです。

 次の文は、継之助が小諸で書いたものを書き下しにしたものです(「河井継之助の生涯」 安藤英男著より)。

昇平 たぐい無きは これ神州
飽食 暖衣 患優を忘る
考課 賞刑 道を失うと雖も
疑わしきにしたがいて 此に至る 亦何ぞとがめん

参考「愛想河井継之助」中島欣也著
  「河井継之助の生涯」安藤英男著  

0/5/20(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)


09169/09169 QYK10262 春秋 RE^5:雑談河井継之助 御奉行格6 (15) 00/05/21 03:07 09162へのコメント

 継之助は20日間ほど小諸にいましたが、いくつかの逸話を残しています。 自分は観相学を学んだ訳ではないが、人を見る目はあるとして牧野隼之進に対して、小諸 藩の何人かの人物の未来を予言しました。「河井継之助の生涯」によれば予言とその結果 は以下の通りになります。
西岡五郎左衛門  理財の才があるので任用するように
長沼半之丞    理財の才があるので任用するように
角田良之進    才知は乏しいが、長者の風があるので人の上に立てると万
         事が円くおさまる
高崎郁母     学問があるが才気が過ぎているので、非業の最期をとげる
         かもしれない

そしてその結果は次のようです。
西岡五郎左衛門  伊那県の会計課長となり、その後小諸町長となる
長沼半之丞    警視庁の会計課長となり、庁内に信用が厚かった
角田良之進    異例の抜擢を受け藩の大参事となり、その後富山県の大参
         事となる   
高崎郁母     脱走囚を秘匿して、浅間山麓に刑せられた

 その他に藩政改革についても、藩の重役に具体的な提言を行っています。その中でも御 牧ヶ原の開墾については、開墾の方法等を藩主康民に力説したと言われます。明治に入っ て同地は、水田500町歩、畑600町歩等を有する村となり、継之助の着眼の正しさが証明さ れました。

 後年、牧野隼之進が自分の子供から、河井継之助の人物を尋ねられたときに、彼はしば らく考えた後に「神様のような人であられる」と語ったそうです。 

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著


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