中老
こんにちは、春秋(はるあき)です。
河井継之助は1867年10月、御年寄役(中老)に任ぜられます。中老は家老に継ぐ役職で、
それまで2名の定員のところを1名増やしての任命でした。
中老になってからも、何かに急がせられたように様々な改革をしていきます。しかしな
がら、翌年の5月には、不幸にも西軍と開戦となります。
これから、しばらく河井継之助の藩政改革を見ていくことにします。
様々な藩政改革は、急ぎに急いでやったことでしょうが、結果を出すためには、時間があ
まりにも残っていなかったと言うべきでしょう。なにしろ、後一年もしない内に河井継之
助自身が非業の死を遂げるのです。
河井継之助と共に、藩財政の改革に力を振るった村松忠治右衛門は実務面での財政改革の
実行者です。その村松忠治右衛門が晩年に書いた「思い出草」に、非常際の備え金も日に
月にと増え、後三年も経てば富国強兵になるのは、はっきり分かっていた、と言っていま
す(「河井継之助を支えた男」立石優著 恒文社)。
はたして、もし3年前に河井継之助が長岡藩の藩政を握っていたら・・・・どうなってい
たでしょうか?
上記のことはともかくとして、これから河井継之助の藩政改革を見ていきたいと思いま すが、改革をしている際にも歴史が動いていますので、書き込みの順序が時系列的には逆 の場合もあると思いますが、ご了解下さい。 また、繰り返しになりますが、改革の時間が少ない関係で一般的に言われているほど効果 の上がらなかったものもあると思います。
0/5/28(Sun) QYK10262 春秋
遊郭の廃止
1867年12月 長岡の貸座敷業者を呼びだし、遊郭の廃止を告げました。実際に告げた
のは、継之助の意を受けた花輪馨之進でした。
この遊郭廃止についても、継之助は彼自身のやり方をしています。すなわち、遊郭廃
止の噂を前々から流して、廃業準備をさせる期間を置くと同時に、廃止を告げる際のシ
ョックを少なくしています。
さらに一方では、長年やってきた商売の転廃業には困難が伴うので、救済措置を取って
います。商売をやっていた者でそれなりの事情がある者には、転廃業のための資金の貸
し付けを行い、転廃業をやり易くします。また、そこで働いていた遊女等については、
親元へ帰しますが、その為の帰宅旅費を支給します。
さらに、この女性たちがキチンと戻っているかも後日確認することにしています。た、
帰る当てのない遊女等については、長岡で生活が成り立つようにその更生を助けたよう
です。
河井河井と今朝までおもひ今は愛想も継之助
河井継之助は自分も遊び好きで、遊郭にはよく行きましたのでこのような落首をされ ています。 なにせ、司馬氏の「峠」では、「良運さんが驚くほど継之助はその世界の表裏に通じて おり、ひょっとしたら女郎屋の研究では日本の武士階級で継之助におよぶ者はあるまい とさえおもわれた。」とまで書かれています。
参考「愛想河井継之助」中島欣也著
「河井継之助の生涯」安藤英男著
0/5/28(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
株の廃止
株は、商売をする権利のようなものです。当時は、大体何処の藩でも、特定の職業に 就くには、株を持っている人に限られていました。その職業とは、藩によって色々でし たが、長岡では10の職業が株の制度になっていて、職業選択の自由が制限されていまし た。継之助は、自由な経済こそ商売が活発になり、結局藩財政も富むとして、 船乗、肴屋、湯屋、髪結、鬢付油、青物問屋の6業種については、「無株の者において も勝手次第に致すべきこと」として、株制を廃止しました。
河税の廃止
長岡藩では、信濃川の水運に関しては、決めておいた船問屋に船を着けさせ、船問屋 が藩に代わって通行する船から、通行料と繁船料を取っていました。この収入は、年に 1千両にもなっていました。 しかし継之助は、「河川は一国全部で共有すべきものである。長年の慣習とはいえ、ひ とり長岡の問屋連が不条理な特権を有して交通の妨げを行い、また、長岡の商人たちが その陰に隠れて不当な利益を占めている事は、心得違いも甚だしい。特に藩庁がこのよ うな不条理な収入に腐心するとは以ての外である。」(「良知の人河井継之助」石原和 昌著)として、河税を廃止しました。 毎年千両もの収入が無くなるというので、関係する船道組合を始め反対する声が非常に 強かったのですが、継之助はあえて押し切りました。 これも、交通の自由化により船の交通量をまして、藩経済を活発化しようとしたもので す。 またこの河税廃止は、前もって幕府に届けて了解を得ますが、届け出を受けてそれを了 承したのは勘定奉行の小栗上野介です。
株や河税の廃止は、経済面では規制を廃止するという非常に進歩的な考えを持ってい たことが分かります。長岡や江戸だけにいたのでは、このような考えは出てこなかった に違いありません。継之助の資質にも寄ると思いますが、長崎をはじめとする西国の遊 学の経験が有ったからこそのような気がします。
参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
0/6/3(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)
財政再建1
河井継之助は藩政に参加してから、重要な課題である財政再建に取り組んできました。
「河井継之助の生涯」安藤英男著には、1865年10月〜翌年9月期の長岡藩の一般会計の
財政収支が出ています(鈴木訥叟の役所日記からあげています)。当時は、米の収穫か
ら一年間が、会計年度(9月期)だったのでしょうか?
それによると、収入が合計で2万1千308両に対して、支出は合計5万8千861両
となっています。単純に見ても、3万6千両もの赤字になります。しかも年間の収入を
上回る金額が、借入金の返済や利息の支払いに充てられるといった有様になっていまし
た。こうなりますと、連年赤字になりますので当然借金総額は、多額なものになってい
きました。
この多額の借金が目に付くようになったのは、天保期からのことで、藩主が幕府の要職
に就いたことが一番の原因のようです。継之助が藩政に登場すると直ぐに始めたのは、
藩主の辞任運動だったということは前に書きました。
財政再建には、長年の慣習となっていることを見直しして、必要でないものは思い切
って廃止し、必要なものも有効に機能するように改めていくことが必要です。その為に
は、今までとは違うということを分からせるためにも、綱紀を引き締めて清潔な人材を
用いることが基本となります。藩自らも襟を正し、自ら苦しまなければ、藩内の領民の
協力が得られないことになります。
継之助の財政再建策は、村松忠治右衛門という良き実行者がいましたが、他にも改革派
の中から、有能で清潔な人材を適材適所に配置しました。郡奉行時代や町奉行時代にも、
このために色々やってきたことは、これまで見てきました。継之助は当時としては、き
わめて優れた経済感覚を持っていたということになります。
0/6/4(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
財政再建2
長岡藩は、「良知の人 河井継之助」石原和昌著によると、1849年の時点で借金が23
万両もあったそうで、それ以後も増え続けたということです。現在でいう一般会計の収
入が2万1千両と少しですから、きわめて多額の債務を抱えていたことになります。
このような多額の債務を抱えている場合の、財政再建は、借入利息の免除や、買返済金
の長期分割による棚上げ、更には、債権の放棄をしてもらうことが考えられます。しか
し、どれも相手があり難しいものですが、中でも債権の放棄は簡単にいくものではあり
ません。債権者に苦しみを負わせるだけではなく、藩当局も真剣に努力しているという
ことでなくては、とうてい納得してはもらえません。
継之助はその為、財政悪化のための非常措置として、藩侯の持っている什器・書画・
骨董類を売却して藩の収入に入れました。今でいうと、会社の借金に対して代表者家族
の持っている個人財産の処分になります。さらに、全藩士に対して当面の間、救米から
人数分の食料を残して、全部を借り上げることにしますした。
こちらは、全社員の給与の減額ということでしょうか。
そうして、債権者に対して、債権放棄をしてもらうことにしました。最大の債権者、今
井孫兵衛に対して継之助が熱心に説き、3万両の債権を放棄してもらいます。その上新
たな献金までさせることに成功しました。同時に今井孫兵衛を、藩の会計方に任命して
上士に取り立てました。
こうして、最大の債権者の協力を得た上で、他の債権者に対して交渉を始めました。
また、藩内から広く献金を求め、献金者には藩侯の名前で役所に招待して、酒や肴を
ふるまったこともあり、予想以上の献金を集めることが出来たといいます。
臨時の御用金やこれらの献金については、その金額や使途についても領民に知らせてい
ます。1867年3月には、前年の御用金や献金総額は、10万2874両1分で、その内
7万3482両は非常時の出金と軍器新調費で、残金は準備金としています。当時藩内
に、このような発表をすることはきわめて希なことだったと思います。継之助が、領民
のことを念頭に置いて改革を進めていたことの表れではないでしょうか。
このようにして長岡藩は、きわめて順調に財政再建が進むことになります。
参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
0/6/7(Wed) QYK10262 春秋(はるあき)
財政再建3
河井継之助の財政再建は、すこぶる上手く行きました。しかしながら、戊辰戦争直前 には、数十万両におよぶ藩のすべての借金を返済して、なおかつ、十万両の余剰金を生 んだと書いてあるものもありますが、どうでしょうか? このように思われたのは、継之助のもとで財政改革の実務を担当した村松忠治右衛門が、 晩年に書いた「思出草」によるものと思われます。確かに、1867年の末には、10万両近 い余剰金があり、領民の前でそのことを発表したようです。 しかしながら、「河井継之助 稲川明雄著」(恒文社)では、「・・かくも急激に財政 を安定させたとするいままでの史書には、はなはだ疑問を覚える。」(P64)とありま す。
前回と繰り返しのようになりますが、直接的な借入金政策の成功例を考えると
1 借金の棒引きに成功したもの・・・債務はなくなります。
2 利子の免除に成功したもの・・・・元本だけの返済になります。
3 返済期間の大幅な延長に成功したもの・・・負担額が減少します。
となります。1〜3までの組み合わせもあったことでしょうが、何れも大きな効果を持
ちます。
しかし、当然の事ながら、すべての借金が、1の棒引きになったわけでは無いでしょう。
返済期間の長期繰り延べの結果、長期間の返済となったものも当然あったはずです。
そのように考えると、「すべての借金」を返したのではなく、その会計年度に返済期限の
きたものだけを返したと考えるのが、常識的と思われます。交渉の結果、長期返済に変え
て貰ったのを、使わない手はありません。
そのようだとしても、河井継之助が行った財政改革は、きわめて短期間に赤字財政を克服
した、まれにみる成功例だと思われます。
0/6/12(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)