雑談 河井継之助

兵制改革


09565/09565 QYK10262 春秋 雑談 河井継之助 兵制改革1 (15) 00/06/18 04:43

長岡藩も、藩主が幕府の要職を努めるなどしていますので、軍備の近代化には無関心 であったわけではないのですが、殆ど進んでいませんでした。原因は、藩士達の意識改 革が出来なかったからでしょう。藩士が皆、子供の自分から、武器の代表としての刀を 稽古してきた時代ですので、難しいことです。この点は東北・北陸という風土にも、関 係がありそうです。 司馬氏の「峠」では、江戸へ出て義兄の梛野嘉兵衛が、「刀は武士の魂ではないか」と 言うのに対して、「わしわな、長岡藩の武士どもには刀を差させまいと思っているのだ」 と言い、武士は両刀を捨て世界最新の兵器で武装すべきだと言います。
 継之助は、西国を旅した経験もあって、兵制の洋式化には積極的に取り組みました。 第一は、銃や砲などの新しい武器の購入です。長岡藩が利用するのは、新しく開港した 横浜です。当時イギリスは、主に薩摩・長州等の西南諸藩と取引をし、遅れてきたフラ ンスは、幕府に食い込んでいました。横浜でも、イギリスやフランス商人の勢いが盛ん でしたが、継之助が選んだのは、その両者ではなくスネルやファブルブランドでした。 継之助は、彼らから主にミニエー銃を購入し、長岡に送りました。「愛想河井継之助」 (中島欣也著)には、「長岡の郷土史家、高島一男さんの調査では、戊辰の2、3年前 から、三国峠を越えて長岡へ送られた新兵器の量は、おびただしかった・・」とありま す。この頃の殆ど全ての東北諸藩は、まだこういった新しい武器を買う余裕はなかった ようです。 ただ、ミニエー銃といっても、長岡藩が購入したものの大部分は先込式のものですが、 それでも武器については、一応薩長と同じようなレベルになったものと思われます。

参考 「愛想河井継之助」中島欣也著

0/6/17(Sat) QYK10262 春秋


09566/09566 QYK10262 春秋 RE:雑談 河井継之助 兵制改革2 (15) 00/06/18 16:38 09565へのコメント

武器を購入しても、使い方を知らなければ役に立ちません。軍隊となるためには、 使い方を教え、さらに集団としての訓練も必要になってきます。 継之助はそのことも考えていて、1867年9月12日にファブルブランドが発行した領収 書をみると、歩兵操練書、銃砲マニュアル、辞典なども購入しています。後年になり ますが、掛川藩士の福島氏は、継之助がファブルブランドの家で、フランスの兵器や 兵制を熱心に研究している姿を見たと言っています。
 購入した銃は、藩士へ安い価格で譲り渡そうと思ったようですが、一部の裕福な藩 士しか買えなかったようで、その後は希望者に貸与することになりました。更に、 1867年12月18日には、銃の取り扱いに早く慣れるように、全ての藩士に1挺ずつ預け ることにしました。この銃の中には、当時最新鋭の、元込め式で標準器付きの螺旋銃 であるエンフィールド銃もあったようです。 以前NHKの番組で、河井継之助を紹介している番組で、畑から出てくる当時の銃弾を見 て、銃砲の専門家がエンフィールド銃であると言っていました。
 また、大砲も新式砲31門を揃え、その上に河井継之助を一躍有名にした、ガットリ ング砲も2門揃えました。ガットリング砲は、スネルから1台五千両(一説には六千両) で購入したもので、当時の日本には3台しか無かったと言われています。

参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
   「愛想河井継之助」 中島欣也著
   「歴史読本 河井継之助」1995年4月号
   「歴史群像シリーズ 会津戦争39」

0/6/18(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


09586/09586 QYK10262 春秋 RE^2:雑談 河井継之助 兵制改革3 (15) 00/06/19 23:06 09566へのコメント

 次に藩士の訓練ですが、継之助は、藩校の隣にあった藩主の別荘を、洋式の訓練所と しています。又以前からあった中島の教練場を大幅に拡張したうえに、射的場を改築し て新たな兵学所を造りました。 この練兵場で訓練を受けるのは、14才から65才までの藩士全員でした。 家老や参政といった重役も、訓練を免れませんでした。司馬氏の「峠」でおなじみの継 之助の親友である医師の小山良運さんも、この訓練には参加させられたようです。この 訓練の参加を免除された唯一の人は、小林虎三郎の弟の雄七郎だけだったといいます。 雄七郎は秀才の誉れが高く、ために学問に専念するように言われたそうです。継之助は どうだったのでしょうか?やはり、訓練には参加したことでしょう。後年の北越戦争で、 長岡城が攻撃されたときには、継之助は自らガットリング砲を操作したといいますから、 もしかするとガットリング砲の操作の教授方として、教えていたのかも知れません(妄 想モード)。(^-^)
 教授としては、かつて、江川・下曽根のもとで学んだ、森一馬・森源三・稲垣才七・ 九里孫次郎等が当たり、兵の進退等の集団行動は主にフランスの陸軍操典によって行わ れたそうです。
 兵制改革については、鵜殿団次郎が1866年7月付けで藩主に対して、兵制改革の意見 書を提出しているが、今回の河井継之助の兵制改革も、鵜殿の意見書の良いところは取 り入れて行われたようです。

 1868年3月、長岡藩は兵制を洋式に改めました。藩士を銃隊で組織し、8小隊で組織 された4大隊としました。小隊は全部で32となり、1小隊は36名で編成されますので、 全部で1152名の軍隊となりました。

参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著

0/6/19(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)


09616/09616 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 兵制改革4 (15) 00/06/23 05:08 09586へのコメント

 兵制改革をした結果、洋式の軍隊となってみると、これまでの身分と一体となった家 禄がどうも不都合に感じられるようになりました。そこで、家禄の改革に取り組む必要 性を痛感しました。しかしそのことは、徳川時代に続いてきた身分制度を、一変させる ことになります。北陸の小藩が、このことを考え実行したと言うことは、驚くべき事と いえるでしょう。 司馬氏の「峠」では、河井継之助は良運さんに「武士の石高制を止めようと思うのだ。 西洋の軍人官吏のように俸給制にしたいと思うのだが、どうだろう。・・・(中略)・ ・・・平時ならとてもできぬ。いまならできる。」と言っています。石高制の廃止まで は行きませんでしたが、禄高の平均化に取り組みます。 この禄高の平均化は、河井継之助と村松忠治右衛門が考えて、実行したものだと言われ ます。

 1864年の長岡藩家中分限帳によると、当時の藩士の知行は以下の通りです。 (「河井継之助を支えた男」立石優著より。石高の階級区分は一部変更しました)
1000石以上       4家
400石〜999石     10家
200石〜399石     40家
100石〜199石     135家
50石〜 99石  104家
25石〜 49石     239家
 25石未満      50家
合計は、582家で52313石になっています。1家当たりの平均は、89.9石となります。 100石未満の家が、全体の67.5%を占めています。 ちなみに、昨年の年末のドラマ「最後のサムライ河井継之助」では、家老の稲垣平助の 2000石は現在の貨幣価値に直すと1億3600万円と言っていました。 番組参加者の皆さんが、一様に「エーそんなに多いの」と言っていましたが、この点は 誤解があります。 2000石の筆頭家老の家は、それ相当の家人を雇わなければなりません。それは単に家事 使用人というだけではなく、戦になったならば、連れていく家来の人数、持参する武器 の数や馬等まで、家禄によって決められています。したがって、全て自分が自由に出来 るお金が、1億3600万円とは全く違うものです。 したがって、この改革と同時に、大身の者の家来(陪臣)は、これを契機として直参と なり、士分や足軽に取り立てられることになりました。
 長岡藩の行った改革は、藩士の禄高の基準を100石にして、100石以上の者は高禄な者 ほど大きい率で下げ、100石未満の者は100石に近づけるように禄高を増やすことにしま した。100石というと、先ほどのTVの計算を採用すると、現在の貨幣価値では680万円に なります。  

参考 「河井継之助を支えた男」立石優著
   「河井継之助の生涯」安藤英男著

0/6/23(Fri) QYK10262 春秋(はるあき)


09633/09633 QYK10262 春秋 RE^4:雑談 河井継之助 兵制改革5 (15) 00/06/24 21:20 09616へのコメント

 禄高の改正は、村松忠治右衛門がまず大幅に禄高が減る家老の説得に当たりましたが、 家老の山本帯刀が真っ先に賛成してくれたようです。さらに山本帯刀は、やはり家老の 稲垣主税や牧野頼母の説得にも当たってくれたようです。 最後に、最高の禄を貰っていた家老の稲垣平助を説いてから、前藩主の牧野雪堂の了解 を求めにいったところ、雪堂は、重役一同同意していると訊いて、大変喜びました。こ のあたりは、前藩主雪堂も、なかなかの人物のようです。

 江戸から藩主が戻って直ぐの1868年3月1日、全藩士に登城を命じて禄高改正を発表し ました。この時には、河井継之助は江戸にいて不在でした。 この禄高の改正により、藩士の禄高は最高は500石、最低は50石となりました。この禄高 の改正は、実力主義の人材登用にも道を開くことになり、これにより、軍隊の近代化も 進むことになります。 この時に、家老の稲垣主税が趣意書を全藩士の前で読み上げました。その現代語の要約が 「河井継之助を支えた男」立石優著に出ていますので、以下にそれをそのまま書きます。 「当今は容易ならぬ形勢に立ち至り、感慨にたえない。今こそひたすら人心一和して忠勤 に励みたい。これまで先祖の功労によって俸禄に厚薄あり、その分限に応じたご奉公によ り軍制も成り立っていたが、この度の改革ですべて銃隊に編成されることになった。われ らますます強兵の実をあげるべく決意を固めねばならない。事に臨んで身命をなげうつに 貴賤はなく、上下苦楽を同じくせねば、一和の筋もこれ亡きことになる。大身の面々の難 渋は気の毒であるが、家風を一新せんとなされる主意をよくわきまえて、忠勤いたすべき である。」

参考 「河井継之助を支えた男」立石優著
   「河井継之助の生涯」安藤英男著

0/6/24(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)


09703/09703 QYK10262 春秋 RE^5:雑談 河井継之助 兵制改革6 (15) 00/07/02 15:44 09633へのコメント

 河井継之助は、兵制改革の他に学制の改革にも着手しました。

  1. 藩校の嵩徳館で講義するのは、朱子学としました。
    従来嵩徳館では、古義派と朱子派とを場所を分けて教えていましたが、両派は、仲が悪く 反目し会っていましたので、他派の本を読むことを禁ずるなど排他的な古義派は採用しま せんでした。
    藩内の人心の一致が大切との思いがあったのでしょう。
  2. 寄宿制度を設けました。
    従来は通行生のみであったが、広く藩内から優秀な人材を求める必要があるとして、藩校 の寄宿寮として「造士寮」を造り、小山良運さんに額を書いてもらいました。
     小山良運さんは大阪の適塾で、河井継之助は江戸で、それぞれ寄宿舎生活をしていますので、 その時のことが参考になったのでしょう。寮生活で寝起きを共にしながら、切磋琢磨する ということは人間形成の上で効果があったのでしょう。
     この嵩徳館「造士寮」の寮長には、酒井貞蔵を抜擢しました。しかし後年この酒井は、河 井継之助の政策の反対者の中心人物の一人になります。
参考 「良知の人 河井継之助」石原和昌著
   歴史読本「河井継之助」1995年4月号

0/7/2(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


雑談 河井継之助 目次  前(中老)へ  次(建白書)へ
にもどる