建白書
話は、長岡藩が禄高の改正を発表した1868年3月より少し遡ります。
前年の1867年10月14日、徳川慶喜の大政奉還があります。大政奉還直後に、朝廷は諸大名に
上京を召命しますが、翌11月までに上京した藩は、薩摩・芸洲・尾張・越前の大藩以外には、近畿
地方の小大名が十数藩だけでした。翌月の12月に入ってからでも、上京したのは土佐藩ほか僅かの
藩でした。
多くの大名は、上京を辞退したり上京延期という具合でした。この先どうなっていくのかが全く分か
りませんので、先行きを見守っているしかないというところでしょう。また多くの藩では、藩内の意
見がまとまらずに混乱していたことも大きいでしょう。
この時に当たって、河井継之助は藩主の牧野忠訓に進言します。以下、「河井継之助」(稲川明雄
著)から、その進言を引用します。
「天下の大勢、まさに一変とす、この時に際し、拱手して、大勢の推移を傍観せむは、とみに徳川家
に対して、義理を欠くの挙たるのみならず、王臣たるの道にも背き申すべし、御家は閣老に就かせら
れし家柄にして、特に雪堂公は、近く所司代職を御勤め遊ばされし御縁故もあれば、すみやかに御上
京のうえ、公武の間に斡旋あらせらるることこそしかるべけれ。」
この継之助の進言に対して、鵜殿団次郎や安田鉚蔵らは、状況は変化するので後日のことを考える
と、藩主の上京はすべきではないと反対しました。
しかしながら、前藩主牧野忠恭と藩主牧野忠訓は、河井継之助の進言を採用し、上京することに決
定しました。
参考 「河井継之助」稲川明雄著 恒文社
集英社版日本の歴史15 田中彰著
0/7/8(Sat) QYK10262 春秋
河井継之助は藩主の牧野忠訓に従って、まず江戸へ行きます。江戸で藩士を揃えて、11月25日
に江戸藩邸を出発します。品川沖に停泊している幕府の軍艦順動丸に乗船して品川を出て、29日朝
兵庫に到着します。
幕府の軍艦を利用できるのですから、徳川幕府もこの頃は、形式に囚われずに随分開かれたものにな
っていたのでしょうか。
初めの予定では、直ちに京へ行き朝廷へ建白書を提出するハズでした。しかしながら、藩主の牧野忠
訓は体が弱く、慣れない長旅で病気になってしまいました。大阪の蔵屋敷で、しばらく療養していま
したがよくなりませんので、河井継之助に自分に代わって朝廷へ行くように命じました。
12月15日、そこで河井継之助は大阪城中で老中板倉勝静と会い、かねて用意していた建白書を見
せ、さらに自分の考えも説明しました。
老中板倉勝静は、建白書や説明を聞き大いに頼もしく思ったようで、徳川慶喜にもこのことを伝えた
ようです。
そうして、河井継之助一行は12月19日に淀川を上り、20日に北野の林静坊に入り休息をとり
ました。
そして22日、継之助は藩主忠訓の名代として、副使三間市之進、付き添え渋木成三郎と共に、参朝
しました。建白書の内容のこともあり、この時には決死の覚悟をしていたことでしょう。
参考 「河井継之助」稲川明雄著 恒文社
「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社
0/7/9(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
この建白書を出すことについて、司馬氏の「峠」では、その意義を継之助に以下のように言わせて
います。
「・・・。こんにち殿様は義侠によって上洛あそばす。このとき御病気なるがゆえにお控えなされた
とすれば、あと百年のお命があったとしてもそれは無駄というものだ。いま徳川家は危機に瀕してお
る。三河以来の譜代におわす牧野家の御当主としては、このとき敵地へ乗りこみこのとき陳弁せねば
なんのための譜代であろう。世々七万四千石の御禄をいただいてい
るきたのは、この一日のためにある。男子とはそういう一日を感じうる者を言うのだ。」
継之助の実際の覚悟も、これに近いものがあったと思います。そうでなければ、この時期にわざわざ
長岡から上京はしません。「進退は義をもってすべきもの」という、継之助の考えが表れているとこ
ろだと思います。
長岡藩の建白書の内容は相当幕府寄りで、部分的には薩長や朝廷を非難しているようなところもあ
ります。幕府の立場を申し開きして、場合によっては朝廷をも説き伏せようと、覚悟していたことだ
ろうと思います。継之助は、議論には絶対の自信を持っていました。この時期に朝廷へ、このような
極めて幕府寄りの意見を陳べることはかなりの勇気が必要です。場合によっては朝廷に不敬なりとし
て、処罰されることも考えていたことでしょう。その場合は、責任は一身に背負う覚悟は出来ていた
ハズです。
さて、議定所に向かった継之助は、いよいよ長谷三位と五辻少納言の前で、建白書の趣旨を説明し ます。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
0/7/13(Thu) QYK10262 春秋(はるあき)
この建白書は2千5百字にもなる長文でが、今回はこの文の紹介です。 以下はその要旨です(「河井継之助」稲垣明雄著の書き下し文を参考にしました)。
朝廷よりお召しがあったのはありがたいことであるが、牧野氏は徳川家の臣下で朝廷から見ると陪
臣であるので、朝廷からの直接の命令は礼儀上からも問題があり、迷惑であります。
徳川氏が大勢を奉還したのに対して、朝廷がすぐにこれを許したのは、この上ない大事件で皆ひどく
驚いており、天下の乱れや万民の苦しみも、皆このことが原因で起きています。さればこそ、上京し
て建言申し上げます。
そもそも保元以来、政権が武門に移ってからも色々ありましたが、徳川氏になってから天下が治ま
りましたので、朝廷も全て政治のことは委任されたのであります。徳川時代になり、世の中が良く収
まり太平なのは、徳川氏の功績であります。しかしながら、長年の太平に慣れてしまうのも世の常で、
特に嘉永以来外国船が来るようになってからは、公武の間にも、議論が様々でてきました。
この世情を悪用し、尊皇の名を利用して私憤で世を乱すものが現れ、以来世に中が不安となり、長州
征伐等の事件も起こったのは実に悲しむべきことです。
外国との付き合いも色々な考えがありましたが、既に先帝の時に交際することは許可されています。
現在では、初め攘夷を唱えていた藩でも外国と親睦を深めていて攘夷など出来ないのは明らかであり
ます。さすれば、朝廷もこの点においては、先後の命令は一貫しておりませんので、恐れながら反省
すべきであります。このように、攘夷抗戦を唱えた者が自らの先後の反復を恥じないで、徳川家のみ
に責任を取れということが正しいことと言えるでしょうか。
徳川家は天下の尊敬を受け、宮殿にて生活していたため下々の生活に暗いところはありましたが、
現在はそのようなことをしているわけには行かず、必死に政治をしています。また、親藩や譜代大名
も追々発憤することでしょう。また、いまの混乱が続いて世の中が四分五裂になってしまえば、人々
は今までの徳川氏の恩を思い出すでしょう。
富国強兵や皇国治安のご命令は、先年より度々出されているが、平和で安眠している者には、なかな
か急には効果が上がりません。内外多難の現在では、国の方針も定まらないときに、ありがたいご命
令が出たとしても、タイミングが悪ければ天下の諸侯は無益の奔命に疲れてしまいます。同じように
公武の齟齬より生じる、皇国一の徳川氏の疲弊は、徳川氏だけの疲弊にあらずして皇国の疲弊となる
ことを理解しなくては、外国より侮られることになります。
任せて疑うのは乱の元となることを考え、これまで通りに全てを徳川氏に委任することにより他には、
治安の道はないものと思います。
大政奉還をいったん受け入れてから直ぐに改めると、かれこれうるさく言う者もいるでしょうが、そ
の場合は朝廷より訓戒すべきであります。
以上は、卑賤の身でありますが、天下万民の安危に係わることなので、及ばずながら恐れを顧みず に申し上げました。不肖の身で天下の事情も全て知っているわけではありませんが、どうかご採用下 さればありがたき幸せであります。
参考 「河井継之助を支えた男」立石優著
「愛想 河井継之助」 中島欣也著
0/7/15(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)
この建白書は、継之助が推敲を重ねて苦心して書き上げ、決死の覚悟で提出したものです。長岡藩
の藩主牧野忠訓は、継之助が朝廷へ建白書を出しに行く際には、「今日の名代容易ならず」として、
手ずから脇差しを与えています。藩主の牧野忠訓は、純真で徳義を重んじる気骨ある人物であったと
言われます。上京した長岡藩の藩士達に「万一暴徒に襲われても、決して騒いではならない。斬られ
れば黙って斬られよ。それが長岡藩が朝廷へ誠意を見せる態度だ。」と戒めた人でもあります(「河
井継之助」稲垣明雄著)。ちなみにこの言葉は、継之助が藩士達に言ったとしている本も多いです。
しかし朝廷では、拝見するのでしばらく控えているようにと言い残してその場を去り、その後、承
知したので引き取るように伝えてきました。徳川家のために朝廷を動かしたいとの目的は、朝廷によ
り無視された格好になりました。
朝廷には無視されたのですが、長岡藩が建白書を提出したことは割合知られていたようです。米沢藩
の雲井龍雄は、全文を写し取り国元へ送っています。
こうして一大決心をして提出した建白書も、取り上げてもらえないままに、12月28日に淀川を
下り大阪へ行きます。
大政奉還直後のこの時期は、朝廷方と幕府方がすさまじい駆け引きをしていた時であり、朝廷にはこ
のような幕府寄りの建白書を取り上げている余裕など全く無かったことでしょう。しかし戊辰戦争に
入ってからも、朝廷と長岡藩の接触では、この建白書が持ち出されたことは無かったようです。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「愛想 河井継之助」中島欣也著
0/7/16(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
12月28日大阪へ着いてから大阪城へ行くと、城内は主戦論一色になっていました。江戸で、薩
摩藩の三田屋敷を焼き討ちしたことが伝わったことによるものです。翌年の1868年元旦、徳川慶
喜はついに「討薩の表」をあらわし、上京することとして諸藩に対して出兵を命じます。
河井継之助はこれを聞くと大変心配となり、板倉老中を訪ねて、この局面を平和理に解決するため
に、もう一度藩主と共に上京して幕府のために斡旋しようと提案しました。さらに現状で、幕府のた
めに考えれば大兵を率いて上京するのは朝敵になり断じて行うべきではない。今は、一日も早く関東
に戻り内政を整え、来るべき時期を待つべきであると説きました。
しかし板倉老中は、ことここに至っては、もはやどうにも止めることは出来ない、と匙を投げている
状態です。
継之助はそれでも諦めきれずに、更に主戦派の平山図書頭を訪れ、同様の意見を述べます。
それでも埒があかないので、主戦論で沸き立つ会津桑名の諸将に面会して、出兵上京の名分のないこ
と論じます。しかし、どうしてもあえて君側の奸臣を取り除くというのなら、京都へ通じる要路を絶
つべきであり、そうすれば京都は食料が欠乏して、自滅するに違いないと述べました。
しかしながら、「討薩の表」で沸き返る強硬派の人々は、薩長など鎧袖一触と考えていましたので、
誰も耳を貸しません。
「河井継之助の生涯」安藤英男著P198によると、会津藩の南摩綱紀は、後にこの当時のことを回想し
て、「継之助、真に東北の一豪傑、若し慶喜をして、その説に従わしめば、兵を伏見に出さず。則ち
内乱起らず。人民死傷せず、財貨濫費せず、国力衰耗せず。而れども其の説行われず。嗚呼命か、惜
しいかな」と書いています。
参考 「河井継之助」稲川明雄著
「河井継之助の生涯」安藤英男著
0/7/20(Thu) QYK10262 春秋(はるあき)
河井継之助の、兵を率いての上京阻止の働きも効果が無く、とうとう鳥羽伏見で1868年正月3
日から、戦闘が開始されます。
長岡藩には、大阪玉津橋の警護が命じられました。藩兵を部署して警護していると、幕府軍の敗報が、
次々に飛び込んできます。しかしながら7日になっても、幕府からは何の指示もありません。継之助
は、どうなっているのかと大阪城へ行きますが、そこで既に、徳川慶喜が密かに城を脱出して、江戸
へ向かっていることを知ります。大阪城内は、てんやわんやの大混乱です。
そこで河井継之助と長岡藩兵も7日夜、大阪から大和路へ行き、伊勢の松坂から、海路で三河の吉田
へ行きます。藩士の中には、勝手に持ち場の大阪玉津橋を離れてあとで幕府からお叱りを受けること
を心配する者もいましたが、命令をする人が帰ってしまったのだから構うことはないと、継之助は当
然のごとく押し切りました。
当時長岡では、京阪で戦争が起きそうだとのことで、藩主を助けるためにと、花輪馨之進率いる1
小隊を派遣します。この花輪は西近江まで行ったときに、幕軍の敗報を聞きます。そこで小隊は長岡
へ返して、自分のみ藩主を捜します。そして遠州の掛川で、藩主一行に追いつきました。
花輪から出兵の様子を聞いた継之助は、国をしっかり守っているべきで、僅かな兵を率いてもし薩長
とでも戦かったらその時には朝敵になり、取り返しが付かないことになると言い、非常に立腹したと
いいます。一緒に藩政改革もやった重役でもある花輪が、慌ててどうするのだ、との思いだったので
しょう。
継之助は状況を把握するために、一足早く花輪と江戸へ急行し1月18日に着きます。そこから国 元へ、状況を知らせると同時に指示もしているようです。藩主一行は、2月1日に無事江戸藩邸へ到 着します。
参考 「愛想 河井継之助」中島欣也著
「河井継之助の生涯」安藤英男著
1868年の1月に江戸へ帰った徳川慶喜は、当初抗戦か恭順か態度をハッキリさせませんでした
が、2月に恭順と決めると、同月12日江戸城を出て上野の寛永寺で謹慎しました。しかしながら幕
臣の多くは、恭順を不満として抗戦を叫び、情勢は混沌としていました。
翌月の3月13・14日に有名な西郷と勝の会談により、江戸城総攻撃は中止になりました。
河井継之助は、情勢がまだまだ流動的であるため、江戸へ留まります。しかし長岡藩が騒然となっ
ている江戸にいては、無用な争いに巻き込まれる恐れありとして、藩主一行に腹心の三間市之進を付
けて2月20日に、長岡へ出発させます。
藩邸の引き払いの準備を進め、藩邸にあった書画・什器や骨董品をファブル・ブラントやスネル等の
外国人へ売り、その代金で銃砲や弾薬を購入しました。また、江戸では藩邸の人員を縮小する藩や藩
邸を引き払う藩もありました。さらに間もなく開戦するとの噂により、戦争を避けるために疎開する
者が多く出てきて人口が大幅に減り、その為米価が大きく下がりました。継之助は、この大幅に下落
した米も大量に買い込みました。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
0/7/23(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)
1868年3月3日、河井継之助は江戸の藩邸を引き払い長岡へ向かいます。長岡藩士約150名
(50名とするものもあり)と一緒ですが、帰りはスネルの汽船コリア号に乗ります。ペリーが浦賀
へ来て江戸中が大騒ぎをしたのが1853年ですから、それから僅かに15年後のことです。北陸の
小藩の長岡藩士150名もが、その黒船に乗って長岡へ帰るとは、藩士の殆どの人が想像もできなか
ったことでしょう。
このスネルの汽船には、長岡藩士の他に、会津藩士約100名と桑名藩は藩主と藩士約100名も乗
っていました。狭い船内ですから、各藩士同士でも色々な話をしたことでしょう。
人間の他には、有名なガットリング砲2門その他の銃器類、江戸で下落していた大量の米と2万両
もの銅銭も積み込んでいました。
安値で買った米は、値段の高い蝦夷地の函館で売却し、銅銭は江戸と新潟の相場価格の違いに目を付
けたもので、新潟では早速両替商を呼んで売却し、1両で約3貫の利益があったといいます。
緊迫の中で帰国するのにも、途中でこれだけのことをやってしまいます。当時の武士としては、珍し
いほど経済の仕組みをしっかり理解していたと言えるでしょう。また彼の学問が、彼の言う実学であ
ったことが分かります。
参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
「愛想 河井継之助」中島欣也著