雑談 河井継之助

中立


10211/10211 QYK10262 春秋 雑談 河井継之助 中立1 (15) 00/08/10 20:44

 継之助が江戸から長岡へ帰ってきたのが、3月28日であります。しかしながら、北陸道鎮撫使は それより前の3月15日に越後の最大藩の高田に着いていました。北陸道鎮撫使はあらかじめ、越後 各藩に高田へ集まるように命令していました。
長岡藩ではとりあえず、植田十兵衛を代表者として派遣しました。
 当時の長岡藩は、藩論が抗戦派と恭順派に別れていました。藩内では、河井継之助は、朝廷に対し ては抗戦するだろうと思っているものが多かったので、朝廷と戦うべきではないと考えた恭順派は、 継之助がいないこの時を、絶好のチャンスと考えたようです。長岡藩論を一気に和平へと持っていく ための、運動を始めました。
恭順派は、藩主の意向や長岡という土地柄の影響もあって、数の上では少数でした。 主な人としては、家老の稲垣平助や安田父子、酒井貞蔵・本富安四郎等の長岡藩校の教授達がいまし た。恭順派の長岡藩校の教授達は、藩主へ、徳川家が既に恭順しているのだから、長岡藩も王臣であ るので天朝へ従うべきであると伝えたり、政庁へも意見を述べたりしました。
しかしながら長岡藩の壮士達は、薩長の暴慢に我慢できない気持ちを持つものが多く、酒を飲むと 「薩摩・長州を、まな板に乗せて 大根きるように、チョキチョキと」歌っていたようですので、藩 内の大勢は抗戦派だったようです。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著

0/8/10(Thu) QYK10262 春秋


10223/10223 QYK10262 春秋 RE:雑談 河井継之助 中立2 (15) 00/08/12 21:33 10211へのコメント

 恭順派の中の一人に、安田鉚蔵がいました。司馬氏の「峠」では、河井継之助に「もし鉚のやつが 戦国に生まれていれば、素手で百万石くらいとれるかもしれない」と言わせているように戦場の指揮 能力には優れていたようです。
継之助は自分が江戸にいて留守中に、安田鉚蔵が政庁で恭順論を説いたと聞き、鉚蔵を叱りますが、 納得せず恭順論を説きます。そこで、継之助は後日鉚蔵を自宅へ呼び、じっくりと説得しようとしま すが、ここでも議論となり自説を曲げませんでした。
継之助と時間をかけて二人で議論して、負けないとはそれだけでも大したものだと思いますが、この 安田鉚蔵はその日以後も継之助の政策を激しく批判し続けました。激しい議論中に興奮して、上司の 継之助を罵倒したとも言われます。
そこで、ついに蟄居を命じられ、家督は弟に継がせることにしました。
 後の戊辰戦争では、長岡落城の際に安田鉚蔵は父や弟と逃亡して、西軍に下りました。

 この安田鉚蔵の河井継之助に対する評が、今泉氏の「河井継之助伝」にのっているそうですが、そ れを要約したものが「越後長岡藩の悲劇」磯部定治著(新潟日報事業社)に載っています。以下その まま引用します。
1、非常に自信家で、物事に辛辣である。
1、普通の人が言い出せないことをズバズバ言い、人のやれないこともどんどんやる。
1、同僚や部下を罵倒することはしばしばで、物事をやろうとする時は、世間が何と言おうが全 く気にせず「裁決流るるが如く果断決行」して邁進した。
1、惜しむべきは己を信ずるに厚く、頑固で人を容れることが少なかった。
1、有名になろうとする気持ちがたえず働いており、事件を好んだ。そのため「終に名利の犠牲と なりて悲惨なる最期を遂ぐるに至れり」であった。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
  「歴史読本 河井継之助」95年4月号 河井継之助暗殺計画の真相ー稲川明 雄著

0/8/12  QYK10262 春秋(はるあき)


10242/10242 QYK10262 春秋 RE^2:雑談 河井継之助 中立3 (15) 00/08/14 00:35 10223へのコメント

 前回書きました、安田鉚蔵の蟄居処分が、恭順派の人々を大きく刺激することになりました。長岡 藩牧野家のためによいと思って、一生懸命に建言した者を考え方が違うからと言って処分するとは何 事か?と云うわけでしょう。
河井継之助の立場からすれば、ここは藩内部では足並みを揃えて行かねばどうしようもない時なのに、 藩内を乱すことばかりしている。どうしてそれが分からないのか?と苦々しく思っていたことでしょ う。
 恭順派の反発は、予想以上のものがありました。河井継之助に対する斬姦状を書き綴り、継之助の 暗殺をしようと思うところまで行きました。その中心人物は、酒井貞蔵でした。しかも、学制改革の 際に、脱藩者であった酒井貞蔵を大抜擢して、藩校崇徳館の寄宿舎である造士寮の寮長にしたのが、 他ならぬ河井継之助だったのです。
 この斬姦状の意訳文が「越後長岡藩の悲劇」磯部貞治著に載っていますので、以下にそれを引用し ます。

           斬姦状
家臣としての道は忠孝だけである。不忠不孝の者は即ち家臣ではない。
今姦臣(河井継之助)が、ひそかに藩政の権力を握り、その徒党は挙げてあやまちになびく。徒党は 主君の明をおおいふさぎ、天朝を蔑み、列藩を欺き侮り、数百年来無傷の牧野氏を、天地に容れざる 朝敵に陥れて、自己の意見をあからさまに主張しようとしている。藩はこのため滅亡するきざしを見 せ、牧野家はこのため祖霊をまつることもできないことになる。
これを忍ぶべきかまた忍ばざるべきか。実に忠臣孝子悲憤痛哭し、涙を流し胸もつぶれんばかりで、 切歯扼腕するところである。
ここで我々は自己の力をも考えず、天におわす祖霊を頼り奸臣を斬って天朝に謝り、牧野氏のために まさに後嗣の絶えなんとする藩を、万世の安きに置かんとする。この同盟者が、かりそめにも盟約に 違反すれば即ち天地、山川、鬼神、天におわす牧野氏の祖霊及び我々の祖霊が、相共に罰として長岡 に住する子孫を根絶やしにしてもよい。
諸君、謹み警戒しよう。この同盟からあえて抜けることのないように。 

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
  「歴史読本 河井継之助」95年4月号 河井継之助暗殺計画の真相ー稲川明 雄著

0/8/13(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


10248/10248 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 中立4 (15) 00/08/15 04:20 10242へのコメント

   この酒井貞蔵の斬姦状に賛同し、河井継之助は自分が斬ろうという者も出てきました。それが、藩 士の加藤一作で、河井継之助を斬る刺客は彼を中心として、何名かのグループが選ばれ暗殺計画を練 ります。
その結果、暗殺の場所は、河井家の菩提所の長興寺裏、決行日は河井家の先祖の祥月命日としました。
長興寺近辺は町はずれにあり人通りも少なく、しかも命日ならば必ず立ち寄るであろう。
 一方で河井継之助の一派の方でも、このような企てがあると言うことは、薄々気が付いていたよう です。側近の者が、継之助に注意しても、「俺を殺せるほどの者はいないだろう。」と言っていたそ うです。
さて、いよいよその日がやってきました。当日の夜、加藤一作等の刺客はお寺の物陰に潜んで、河井 継之助を今か今かと待っています。その前に河井継之助は現れました。刺客等の存在に気が付いたの か、継之助は陽明の詩をうたいながら刺客の前を、堂々と歩いていきました。そのあまりにも悠然と した態度に圧倒されて、切り込むタイミングを失ってしまいました。継之助の得意とする「気」で勝 負したものでしょう。
こうして河井継之助暗殺計画は、失敗に終わりました。
この後も、加藤一作は河井継之助を狙ったとも言われますが、暗殺は未遂に終わり、この件について は処分者も出ませんでした。
 この後、恭順派の拠点となっていた藩校崇徳館に、河井継之助は腹心の鬼頭六左右衛門に1個小隊 をつけて派遣し、恭順派の動きを監視させました。その結果、恭順派は何も活動が出来なくなりまし た。

参考「越後長岡藩の悲劇」磯部定治著 新潟日報事業社
  「歴史読本 河井継之助」95年4月号 河井継之助暗殺計画の真相ー稲川明 雄著

0/8/14(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)


10528/10529 QYK10262 春秋 RE^4:雑談 河井継之助 中立5 (15) 00/09/03 17:30 10248へのコメント

 話は少し遡りますが、河井継之助は、4月17日、全藩士を城中に集め藩として向かうべき方向を、 藩主牧野忠訓の前で藩主に代わって伝えました。
以下は、「河井継之助の生涯」安藤英男著より引用します。

 今般、奸臣、天使を挟んで幕府を陥れ、御譜第の諸侯、往々幕を背いて薩長に通ず。大いに怪しむ に堪えたり。余、小藩と雖も、弧城に拠りて国中に独立し、存亡を唯天に任せ、以て三百年来の主恩 に酬い、且、義藩の嚆矢たらんと欲す、と。

 譜代の長岡藩としては、恩のある徳川家に背くことなどすべきではない。「進退は義を以てすべき もの」というのが、河井継之助の信念です。長岡藩の進むべき道も、どうするのが「義」に適うかと 考えたのでしょう。日和見の多い諸藩にあって、長岡藩は一人「義藩」の先駆けとなるという宣言で した。おそらく、藩主や前藩主の思いも同じ様なものだったでしょう。

 司馬氏の「峠」で、安田鉚蔵を説得する際に洩らした秘策の、「そのときは、きかぬ側、それが会 津であれ官軍であれ、討つ。この長岡藩が、だ」(同書より)という、両者の仲介役をするというこ とも、考えていたことでしょう。
もっとも司馬氏は、直ぐその後で、「めだかが、鯨と鯱の喧嘩の調停をしようというようなものだ。」 と書いています。
もちろん「めだか」は長岡藩のことです。(^-^)

0/9/3(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)



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