雑談 河井継之助

小千谷


11188/11195 QYK10262 春秋 雑談 河井継之助 小千谷1 (15) 00/11/13 21:01

 2ヶ月以上も空いてしまいましたが、再開します。
 さて幕末の越後は、小さな藩が多い上に、会津・桑名・米沢藩など各藩の飛び地があり、その上 幕府の直領もありました。そのため、この時期の越後には、幕府の脱走兵を始め、会津や桑名の藩 兵が入り込み戦争状態でした。長岡藩は態度を保留していたとしても、西軍の出兵要求等について は応じていませんでした。武力を用いるこの段階では、西軍もハッキリ味方するもの以外は敵とし て認識していただろうと思います。すなわち、長岡藩は当然に武力討伐すべきものとして見られて いたハズです。

 西軍は、雪峠・芋坂の会津軍と幕府脱走軍の衝鋒隊を破り、小千谷に進みここに本営を設けまし た。時に1868年閏4月27日のことです。
これに対して、河井継之助は藩内警備のために出動していた諸隊のうち、小千谷に近い部隊を撤収 させました。長岡藩の南の防御の要となる榎峠周辺を、わざわざ放棄してしまったのです。直接的 には、長岡藩兵と西軍が至近距離で対峙していると、思いも寄らない突発的な衝突が起きる恐れが あるため、それを回避したものです。
この撤退については「河井継之助の真実」(外川淳著 東洋経済新報社)では、西軍と交渉を行う ための切り札だったと分析しています。
西軍からの出兵要求や献金命令も、あえて無視していた長岡藩が、西軍との交渉に臨む前に、戦略 上の重要拠点である藩境の南方高地から撤退し、最上級の誠意を示して見せたものだとしています。
河井継之助は、長岡藩の誠意を形にして見せた上で、交渉に臨もうとしたものではないかというわ けです。

 5月1日に、河井継之助は花輪彦左衛門(長岡城再陥落の際に戦死)を、小千谷の西軍本営に使 わして、家老が嘆願のために出頭したい旨伝えました。西軍はこの申し出を受けます。

参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社

00/11/13(Mon) QYK10262 春秋


11225/11225 QYK10262 春秋 RE:雑談 河井継之助 小千谷2 (15) 00/11/16 05:47 11188へのコメント

 さて、5月2日の朝河井継之助は、藩随一の剣客といわれた二見虎三郎と従僕二人という身軽さ で、小千谷会談に向かいます。
同行した二見虎三郎ですが、この後は北越戦争に参加し、長岡城が再び落城した後は会津で戦いま す。しかし、8月25日の戦いで負傷。その後、山形へ行き、そこで自殺します。
 長岡で信濃川を渡り、対岸では川を遡るかたちで小千谷まで行ったようです。途中で西軍の一隊 に会いますが、応対は至って丁寧で本陣まで案内してくれます。西軍の本陣(もと会津藩の陣屋が あったところ)へ行き、河井継之助と二見虎三郎の二人は奥へ入っていきました。しばらくすると、 片貝の人が「御注進!御注進!」「ただいま会津勢2千人  片貝へ向かって進んできます」ということで、本陣は騒然となりとても会談をやっている状態では ありません。そこで一端退出することにして、信濃川沿いの旅籠屋で待機します。 この片貝の会津勢の進出は、西軍と長岡藩の小千谷会談を邪魔するために行い、その為、会津藩の 佐川官兵衛隊が、わざと長岡藩の旗指物の五間梯子を戦場に捨てていったと言われています。
このためその後に行われる会談は、本陣へ案内されたときとは明らかに違い、とげとげしい雰囲気 に変わっていたようです。
 間もなく西軍よりの使者により、会談をするために指定された慈眼寺に向かいます。慈眼寺では、 本堂右奥の間に継之助一人が通されました。
迎える西軍は、土佐藩出身の軍監岩村精一郎、介添えとして、薩摩の淵辺直右衛門、長州の杉山荘 一・白井小助が同席しています。

参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社

00/11/16 QYK10262 春秋(はるあき)


11275/11275 QYK10262 春秋 RE^2:雑談 河井継之助 小千谷3 (15) 00/11/19 21:22 11225へのコメント

 この小千谷会談へ向かう継之助のことを、藩主の忠訓は大変心配しますが、継之助は落ち着いて いました。
信濃川を渡る手前では、このような勝手なことを言っていても、ばっさりやられてしまったら、そ れでお終いだ等と軽口を叩いています。義に基づいて、やるべきことをやるという決心が決まって いたからでしょうか。
 さて会談の主な相手の軍監岩村精一郎は、当時僅かに23才の若者でした。この会談は結局、河 井継之助の嘆願は聞き届けられなくて、開戦という結果になるのは周知のことです。

   この会談での河井継之助の主張は、極めて簡単にいうと、今まで出兵も献金もしなかったことを 詫びるとともにその藩内事情を述べ、時間を貸してもらえば藩論を朝廷側に統一し、長岡藩が東北 諸藩を説得するというものです。
後になってからの、岩村の回想では、この時の河井継之助の態度は堂々として、とても嘆願(お願 い)に来ているような態度ではなかったそうで、むしろ、西軍を言い負かすような風さえあったそ うです。
河井継之助の交渉方法は、山中事件などを思い出すと、交渉の当事者本人へ、供も連れずに直接合 い、彼自身の気合いで説き伏せるようなことが多くあります。相手の本丸に単身で乗り込み、アッ という間に片づけてしまいます。ですから、この時もその方法を採ったと言えるかも知れませんが、 上手くいかなかったのです。
 軍監の岩村精一郎が、河井継之助と同じ土俵の上で話を聞こうとせずに、一段も二段も高いとこ ろにいて、要求するのみだったためでしょう。
岩村の回想でも、当時は河井継之助のことをいわゆる門閥家老の馬鹿家老だと思っていたようで、 継之助の話を時間稼ぎのためだと思ったのは、やむを得ないことかも知れません。このため、岩村 は継之助の苦心の嘆願書を全く読みもせずに、総督府への取り次ぎも拒否します。その為河井継之 助は、尚も何回も繰り返して嘆願し、終いには岩村の裾を捉えて尚も訴え続けましたが、岩村は振 り払って会見を打ち切り、奥へ入ってしまいます。
自分の交渉力には絶対の自信を持っていただけに、さぞや無念だったでしょう。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社
  「戊辰朝日山」中島欣也著 恒文社

00/11/19(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


11324/11324 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 小千谷4 (15) 00/11/24 02:56 11275へのコメント

 会談を打ち切られた河井継之助は慈眼寺を出ます。そして、小千谷の料亭「東忠」で、遅い昼食 を黙々ととります。食事中も、様々なことを考えていたのでしょう。継之助が食事をした、2階の 座敷は今も残っています。
食事を済ませた後は、小千谷にある宿の「野七」へ行きます。宿に着いてからしばらくして、西軍 本陣へ再び出向き、再度の会談の申し入れをしますが、取り次いではもらえませんでした。
その為、尾張・松代・加賀藩の陣屋を回り、会談の取り次ぎを、そしてそれがダメなら嘆願書の受 け取りを頼みますが、全て拒否されます。
岩村総督の回想として、「・・・後に門衛に聴く所によれば、河井は猶も幾度となく、本陣の門に 来り、再度の面会を請ひ、深夜まで其の付近に徘徊し、頻りに取り次がんことを求めたが、衛卒が 之を承知しなかった為め、遂に已むなく引き取りしとの事だ。」(「河井継之助の生涯」安藤英男 著で今泉鐸次郎著の「河井継之助傳」より)とあります。簡単には諦めきれずに、粘り強く、色々 と努力を重ねたようですが、全ては上手くいきませんでした。
 ここに於いて継之助も、遂にもうこれまでと諦め、宿の「野七」へ引き返します。宿の周囲は、 西軍の兵士で見張られていましたが、宿では酒肴を命じて、二見虎三郎と酒を飲み、詩を吟じてい たそうです。
会談の不調に無念の思いでいたのでしょうか、それとも、出来るだけのことはしたが、遂に戦にな ったとキッパリ覚悟を決めた後の決意の酒だったのでしょうか?

 山県有朋の回想では、自分は河井継之助が小千谷に来たら拘留して置けと指示をしたそうです。
しかしながら、この指示が岩村総督に届いたのが河井継之助が帰った翌日だったそうで、間に合い ませんでした。しかし、本当にその指示をしたのかを含めて、事実は分かりません。本当にその指 示が重要だと思ったなら、間に合うように出すことは簡単に出来たはずです。
軍監の岩村は、河井継之助の使いが来た5月1の日に、山県のいる柏崎に使いを出しています。河 井は、翌日小千谷にやってきて、昼頃岩村と会い当日は小千谷の「野七」に泊まっているのです。
時間は十分にあったハズです。
 また、山県が河井を帰すなと指示したのは、自分が河井継之助と会って直接話し合うつもりだっ たのか、あるいは河井を捉えて人質としてしまうつもりだったのかは分かりません。「脇役たちの 戊辰戦争」(中島欣也著 新潟日報事業社)では、山県の意図が、前者であったとしても、談判が 不調に終われば、彼はすぐ後者の目的に切り換えたであろう、と述べています。また、岩村が相手 だったからこそ、河井は無事に帰れたのであろうといっています。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社
  「愛想河井継之助」中島欣也著 恒文社

00/11/23(Thu) QYK10262 春秋(はるあき)


11355/11355 QYK10262 春秋 RE^4:雑談 河井継之助 小千谷5 (15) 00/11/26 17:39 11324へのコメント

 小千谷会談の前までは、河井継之助は東軍と雖も長岡藩内に入れずに、中立の立場を採ります。
また、その頃には藩内の人から「いったいどうするつもりか?」と訊かれると、「いや、戦はして はならん。戦してはならんでや。」と答えるのが口癖だったと言います。
これらのことから、継之助の採ろうとした方策はスイスのような「武装中立」とも言われます。継 之助は、小千谷会談をどのように考えていたのでしょうか?

  1.  ただ中立をしたい、西軍が長岡を無視してくればいい
  2.  戦の準備ための時間稼ぎ
  3.  最初から東軍として戦うつもり、小千谷会談はその戦のための名分を得るため
  4.  継之助は東軍に勝ち目のないことは分かっていたが、藩主・前藩主の強い意向により、調停役 として名乗り出た
 色々な考え方が出来ます。この辺りの考え方によっては、河井継之助はすごい人か、または、単 に負けると分かっていた戦をやり死んでしまった人、のようなつまらない評価にもなるのでしょう。

 私は、継之助の中立や調停役は本気だったと思っています。
その理由は、交渉が西軍によって一方的に打ち切られた後も、深夜まで再交渉に努力していたこと。 また、西軍を長岡に迎え入れるために「御会所」の新築のため、材木などを用意しています(「河 井継之助の生涯」安藤英男著)。更に何より大きな事は、いま日本は国内において内戦をしている 場合ではないと云うことを、十分に分かっていたはずだからです。
この継之助の意図としては、「・・・牧野家の家訓ともいうべき<常在戦場>の緊張感を抱かせる と同時に、むしろ新政府と会津藩の間に立って救解調停の役を引き受け、それによって長岡藩の存 在を天下に認識させようというのが最初の意図ではなかったかと思われる。」(「戊辰落日」綱淵 謙錠著)が妥当なところではないでしょうか。

00/11/26(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


11406/11406 QYK10262 春秋 RE^5:雑談 河井継之助 小千谷6 (15) 00/12/02 23:13 11355へのコメント

 「良知の人 河井継之助」(石原和昌著)では、著者が小千谷会談で腑に落ちない点が2点ある としています。

 その一つが、会談に同席した長州の白井小助が一言も発言しないで、岩村のなすがままにしたこ とです。同書では、白井は吉田松陰の盟友とも言える人で、高杉晋作とともに奇兵隊の創設に参画 して、第二奇兵隊をつくった人で、当時の年功や経歴・実力からは岩村の下にいるような人ではな いそうです。
 もう一つは、この小千谷会談は岩村の独断専行ではなかったのかという点です。
この二つについては、「脇役たちの戊辰戦争」(中島欣也著)に触れられていますので、以下同書 を参考に書きます。
越後の攻略は本来、北陸道軍の担当で岩村の属する東山道軍とは関係がありません。岩村は、当時 信州を荒らし回っていた衝鋒隊を討伐するために信州尾張の兵を率いていました。信州は、東山道 軍の受け持ち地区でした。
岩村はこの衝鋒隊を追って、信州から越後の入り口の新井に入り、北陸道軍が進出してくるまで、 待っていました。
その後山県・黒田の北陸道軍が高田へ進出した際に、連絡のために高田へ行きます。ここでおそら く、北陸道軍が越後を攻略するのは兵が著しく不足していたため、岩村の率いる兵力を帰す手はな いと思った山県・黒田等が、北陸道軍への参加を求めたようです。すぐさま間に合う兵が他にいな かったと云う場合で、やむを得なかったのでしょう。
岩村からすれば、自分が山県や黒田の北陸道軍を助けてやるという、意識があったのでしょう。そ の為山道軍として、山県・黒田等の本隊である海道軍とは別行動をとります。
山県や黒田は、岩村に協力するとして薩長の一部隊をこの山道軍に送りますが、それが、白井小助 や淵辺直右衛門でした。
この無理を言って、北陸道軍に参加してもらったと云うことが、岩村の独断専行を許した一因では ないかと書かれています。

00/12/2(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)


11415/11415 QYK10262 春秋 RE^6:雑談 河井継之助 小千谷7 (15) 00/12/03 18:13 11406へのコメント

 会談の翌日5月3日朝、河井継之助達は長岡へ帰るために宿を出ます。
信濃川の渡しの浦村へ着いたときに、継之助の安否を心配して藩主から命じられて出迎えに来てい た藩士槇吉之丞が、待っていました。継之助は、談判が決裂したことを告げ、一足先に本陣へ戻り、 各部隊の隊長を集めておくように指示します。
 信濃川を渡った彼は、まず前島にいる川島億次郎に会いに行きます。川島は、この時には西軍と は戦うべきではないと主張しており、不戦派の中心人物の一人で、他の藩士に対する影響力も大き いものを持っていました。
継之助は、川島とは若い頃には大変仲がよく、継之助の不遇時代には一緒に東北旅行に行ったこと もあります。継之助は、影響力の強いこの男を、何としても説得しておきたいと思いました。
二人だけになり、順を追って小千谷会談の経過やその後の話をしましたが、川島は納得せず激しい 議論になったと言われます。この議論をお終いにさせたのは、継之助の次の言葉です。「今となっ ては、戦わずに済む道は、おれの首を切ってそれに3万両を添えて、西軍へ持っていくこと以外に はない。」川島もこの言葉を聞き、ついに折れ、継之助とともに生死をともにすることを誓います。
「愛想 河井継之助」(中島欣也著)では、継之助は理屈ではとても説得できなかったので、人情 で川島を同意させたと表現しています。

 二人は摂田屋の本陣へ行き、集合していた諸隊長を前に、継之助が小千谷会談の経過を話し、戦 う以外に道はないことを演説します。これにより、藩内外に長岡藩の開戦することが伝わり、藩内 の指揮も急速に盛り上がりました。
 翌日の5月4日、ついに長岡藩が奥羽列藩同盟に加わったのです。

00/12/3(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)



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