雑談 河井継之助

北越戦


11584/11584 QYK10262 春秋 雑談 河井継之助 北越戦1 (15) 00/12/23 17:20

 いよいよ、北越戦争の話になります。この北越戦争の長岡藩と河井継之助については、「長岡城 燃ゆ」「長岡城奪還」(稲川明雄著 恒文社)が、日付順に大変良く書かれています。北越戦争の 経過について興味がある方は、そちらを読んでみて下さい。
 経過を極めて大雑把に言いますと、開戦当初東軍は長岡の南方の要地、榎峠・朝日山を西軍から 奪い返します。その後、戦線は膠着します。しかし西軍の信濃川の強行渡河による奇襲により、手 薄になっていた長岡城は落城します。河井継之助も、翌日に強行渡河作戦を実施予定であったため、 この一日の差が両軍の明暗を分けたと云われます。
シンボルでもある城が落城すると、ガタガタとなっていまいそうですが、東軍は栃尾で再起を期し ます。その後今町で、西軍を破りやや優位に立ち、ついに長岡城をアッと驚く奇襲によって西軍か ら奪還します。

 戦争の経過については上記の書に譲り、私は、北越戦争のこぼれ話のようなものを、少し紹介し ていきたいと思います。

00/12/23(Sat) QYK10262 春秋


11588/11588 QYK10262 春秋 RE:雑談 河井継之助 北越戦2 (15) 00/12/24 20:29 11584へのコメント

 1868年5月19日早朝、西軍は信濃川を渡河し長岡城を急襲します。
信濃川は我が国有数の大河で、長岡の上流の長野市では、この時よりおよそ300年ほど前には、戦 国史でも名高い川中島の合戦が行われています。
信濃川は、長岡市では、ほぼ南から北へと流れています。この日は連日の雨で、信濃川の水量は大 幅に増水していました。西軍が信濃川を渡ることを考えたように河井継之助も、信濃川を渡り、二 つの西軍本営(海道軍の関原と山道軍の小千谷)を急襲する作戦を練ります。継之助が考えた渡河 地点は前島で、長岡城と榎峠の間のやや長岡城よりにあります。
ひそかに前島に兵を集め、機会を伺っていましたが、いよいよ5月19日の夜に実行予定でした。
 当時、長岡城に近い信濃川の渡しは、長岡城より北(下流)に蔵王の渡し、南に草生津の渡しが ありました。長岡藩でも、この地点には西軍の渡河に備え、兵士を派遣していました。
しかし、今回の雨による大量の増水が西軍の渡河地点を換えてしまうと予測し、本陣まで知らせて きた人もいます。つまり、通常なら本大島村から草生津の渡しを渡れば対岸の長岡城の南側に着く のですが、増水しているため、急な流れに流され普通では船着き場になり得ない中島・寺島辺り (長岡城の真横辺り)が危ないと知らせた人がいました。摂田屋の長岡藩の本陣まで行き、このこ とを伝えましたが、絶対的な兵力の少なさのために採り上げられませんでした。
しかし、19日の長州藩と高田藩の本大島からの信濃川渡河は、増水した信濃川の急な流れの為に大 きく流され、長岡藩が保塁を築いて守っていた前面を通り過ぎ、守りの薄い寺島辺りに上陸してし まいます。
 西軍の渡河を予想しておらず、信濃川河畔には僅かな兵しか配置しなかったことが決定的な敗因 とは云え、渡河作戦実行日の半日のズレといい、上記のことと言い、この19日には、西軍には運 (つき)があり東軍にはなかったということでしょう。
ちなみに薩摩藩は、大部下流の蔵王の渡しを渡りますが、こちらはあまり流されていないようです。

参考 「長岡城燃ゆ」稲川明雄著 恒文社
   「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社

00/12/24(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


11603/11603 QYK10262 春秋 RE^2:雑談 河井継之助 北越戦3 (15) 00/12/26 20:34 11588へのコメント

 河井継之助にとって、長岡城の落城は痛恨のことであったと思われます。私は、河井継之助はこ の北越戦争は、やり方によっては十分に勝つチャンスがあると認識していたのではないかと思って います。
 以下は、私の個人的な推測・妄想モード(あまり当てにはなりません)です。
第一には西軍といっても、寄せ集めの模様眺めの軍隊であり、戦意のあるのは長州・薩摩等きわめ て少数であること。したがって初戦において鮮やかな勝利を続ければ、長州・薩摩以外の藩の軍隊 は、戦を嫌がり終いには戦を放棄する可能性もありうること。その上、更に戦闘を優位に継続すれ ば、外交によっては戦闘から離脱する藩が出てきて、場合によっては西軍から東軍へ味方する藩も 出てくると考えていたでしょう。
実際に、初戦において榎峠・朝日山が東軍に奪われ、その奪回戦で長州の時山直八が戦死して西軍 が敗北した後は、西軍の中でも一時的に撤退すべきだという論が起こっています。
この軍事的に圧倒的な優位の状態で、西軍首脳ともう一度、談判をしようと思っていたのではない でしょうか。つまり不本意だった小千谷会談のやり直しです。今はなにより、長く戦をしている場 合ではないのです。長岡藩の力を見せておいてから談判に臨んでそれをまとめれば、新政府内にお いて長岡藩は大きな発言力を持つことが出来ます。
その為には絶対負けてはならない。一度負けてしまえば、その機会を再び創るのは、極めて困難に なりますので、終始大きく優勢を保ち、西軍を圧倒していなければなりません。大きな優位こそが、 西軍の厭戦気分を拡げ、談判を可能にするのです。
河井継之助による、東軍の信濃川渡河による西軍本営の急襲は、このような意味でも極めて重要な 戦いとなるはずでした。河井継之助は、そのように考えていたのではないでしょうか?
そうすると、継之助にとっては長岡城の落城は、返す返すも無念であり、痛恨の極みであったこと でしょう。

00/12/26(Tue) QYK10262 春秋(はるあき)


11617/11617 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 北越戦4 (15) 00/12/27 20:24 11603へのコメント

 戊辰戦争において、長岡と会津はよく似ているとことがあります。
長岡落城の際も、南方の榎峠朝日山方面と信濃川渡河のために兵力を集中しており、お城付近は兵 力の空白状態のようになっていますが、これなども国境周辺に兵を出していた会津とよく似た状況 になっています。
少年兵としては会津の白虎隊が有名ですが、長岡藩にもこの落城の際に戦った少年兵がいました。
長岡藩では、1部隊40名ほどの小隊単位の部隊編成をしています。
長岡城の外堀の役目をしている内川に掛かる内川橋の直ぐ外に兵学所がありますが、この日そこを 守っているのが倉澤竹右衛門隊でした。この隊は、隊長の倉澤と二人の小頭以外は、15才〜18才ま での少年で組織された100名ほどの大きな隊でした。
この部隊は予備隊のような扱いの為か、長岡藩の軍服を着ているものもなく、小銃も全員には行き 渡っていなかったようです。信濃川を渡河してきて、川沿いの防衛戦を突破した西軍とこの少年隊 が戦いに入ります。やがて倉澤隊長が銃撃を受け、重傷を負い、二の丸の神田口門付近まで退却す ることになります。
長岡にとって運がないことには、東軍の村松藩が急襲の混乱により内川橋へと退却してきた長岡藩 兵を西軍と見誤り、銃を打ちかけましたが、これが村松藩が裏切ったとの流言を呼び、これが拡が り東軍は一層混乱してしまうのです。
 また会津藩と同じように、落城に際しての老人の鮮やかな活躍もあります。70余才の稲垣友右衛 門の落ち着いた銃撃。62才で槍の達人であった伊東右衛門は、先祖伝来の甲冑を着て名乗りを上げ、 3名の薩摩兵を得意の槍で倒しますが、槍では敵わぬと見た兵により銃殺されてしまいます。
河井継之助も、この日はガットリング砲を操作してお城の大手門前で必死の防戦をしますが、操作 中に銃弾により負傷します。
 藩主の忠訓一同は栃尾方面へ向かいますが、会津の秋月悌次郎の薦めもあり、後に会津へ落ちて いきます。途中の只見まで来ると、忠訓は自分等一族に従うものを十数人の少数に絞り、他は河井 継之助のもとへ帰します。

参考 「長岡城燃ゆ」稲垣明雄著 恒文社

00/12/27(Wed) QYK10262 春秋(はるあき)


11630/11630 QYK10262 春秋 RE^4:雑談 河井継之助 北越戦5 (15) 00/12/28 15:53 11617へのコメント

 前回に続き長岡と会津の似ているところですが、女性がしっかりしています。 榎峠・朝日山から退却してきた会津藩の青龍士中3番隊の兵士が、一晩中歩いて明け方にようやく 栃尾郷泉村に着いたときのことです。空腹に絶えかねて、庄屋の家に行き朝食を強要しました。庄 屋は官軍お達しにより、会津等の面倒は見れないと言いのです。これを聞いた会津藩士が怒りだし、 刀を抜き庄屋を切り捨てようとします。この時に奥から、鉢巻きにたすき掛けをして、長刀を持っ た女性3名が現れました。一人は河井継之助の姉のふさ(佐野家に嫁ぐ)で、会津藩士に、「大勢 の兵士が来たので、敵かどうか確かめるために庄屋にあのように言わせた」と言うことでした。そ の後、会津藩士達はそこで朝食をとれたことは言うまでもありません。長岡藩士の佐野家の一行が、 庄屋宅へ非難していたものですが、武士の妻に相応しい気丈夫さを持っていたようです。 しかしながら、このように凛としていた河井継之助の姉のふさは、何があったのか分かりませんが 戦争中にこの地で病死しています。
 更に他にも、退却中の会津藩士が長岡藩士の親子と思える婦人2人連れに、同情して声を掛けた ところ、気丈夫な答えが返ってきました。「従軍している夫と殿の小姓を勤める長男の消息が分か らないので大変に困っている。しかしこのようなことは戦争であるのでかねてより覚悟はしていた ので、今更驚くことではありません。拝見したところ、あなた様方は会津へ向かっているようです が、このまま(会津へ)帰ってしまうのでしょうか、それとも再挙をするのでしょうか?」会津藩 士達が会津へ帰ってしまうのを察知して、懸命に引き止めたものであります。
 武士を中心とする藩の家庭内の教育が良く行き届いていた、ということも会津藩と同じ様な気が します。そしてそのことが、単なる兵士達の戦争ではなく、長岡も会津も藩の出せるすべての力を 使った総力戦になっていった原因のような気がします。

参考 「長岡城燃ゆ」稲垣明雄著 恒文社

00/12/28(Thu) QYK10262 春秋(はるあき)


11643/11643 QYK10262 春秋 RE^5:雑談 河井継之助 北越戦6 (15) 00/12/29 20:38 11630へのコメント

 東軍の長岡城奪還の際には、八丁沖を渡るという奇襲を行いますが、この八丁沖の作戦を影で支 えた人がいました。名を鬼頭熊次郎といいます。彼のことは、「戊辰落日上」(綱淵謙錠著)の 「絶唱」の項に書かれている他、「戊辰朝日山」(中島欣也著)にも紹介されています。それらを 読ん際、彼の献身的な生き方に、感動を覚えました。以下後者の本を元に簡略して書きますが、私 の書き方では心許ないので、機会がありましたらお読み下さい。

 鬼頭熊次郎は、鬼頭家の部屋住みで剣術が得意だったそうです。苦しい家計を助けるため、家か ら12キロも離れた山へ薪取りに行ったり、八丁沖(沼)では1.5メートル四方の狭い仮小屋に6・7 日も泊まり込んで魚を網で捕るという重労働をこなしてきました。その長年の重労働のため、彼の 足は内側に曲がってしまいます。しかも、こうして苦労して稼いだお金を、彼は一銭も自分のため には使わず、すべて兄に差し出したと言います。こういう自己犠牲のような生活を、結婚もしない で続けてきました。
長岡戦争が始まる直前には、長年の無理がたたって体を壊して床についていました。しかし西軍が 長岡に迫ってくると聞くと、国家の重大事に寝ている場合ではなく国難に殉ぜねばならないと銃を 取ります。長岡城落城時に戦い、その後東軍が栃尾に引いてからの戦闘で、彼は流れ弾に当たって 負傷し病院で治療を受けます。

 その傷も癒えたある日、鬼頭熊次郎は何人かとともに河井継之助に呼ばれます。
その場で河井継之助は、八丁沖を密かに渡る長岡城奪還計画を告げ、その為に八丁沖の進撃路を切 り開き整備することを命じます。鬼頭熊次郎はじめ集められたのは、平素そこで魚取りをしている 八丁沖を知り尽くしている人ばかりでした。鬼頭熊次郎はもっとも危険な場所を受け持ち、藩士 4・5人を連れて早速その日の夜から4夜連続して必死の作業をします。このため熊次郎は憔悴しき ってしまいます。突入の日には、熊次郎の弱っているのを見た軍監は、後は皆に任せて休んでいろ と言いますが、熊次郎は聞かず、自分はたとえ八丁沖で死んでもいいと言い先導します。
彼は部隊を先導していき、攻撃命令が発せられると先頭を切って突撃していきました。そして彼は、 宮島の敵保塁へ飛び込み一人を斬ったところを、銃で撃たれ戦死します。この作戦の長岡藩の戦死 第1号でした。熊次郎41才です。
彼の背には元込め式の最新銃があったのですが、河井継之助の銃を使うなという命令を律儀に守っ たためか銃は使っていませんでした。

 彼の兄は鬼頭平四郎ですが、彼にも話があります。新潟へ行き独断でスネルから、武器を買って きたことです。彼は加茂の本陣へ行ってから、重役の前で専断を詫び処分を覚悟しましたが、その 時河井継之助は皆の前でその臨機応変の処置を誉めたと言われます。

参考「戊辰朝日山」中島欣也著 恒文社

00/12/29(Fri) QYK10262 春秋(はるあき)


11647/11647 QYK10262 春秋 RE^6:雑談 河井継之助 北越戦7 (15) 00/12/31 00:35 11643へのコメント

 7月25日、守りの手薄な八丁沖からの奇襲による長岡城の奪還は見事に成功しました。西軍も攻 勢を予定していたため、先手を取った東軍が有利でした。
奇襲であったために、西軍は逃げるのに手一杯となった隊も多くあり、その為多数の武器や弾薬兵 糧が本陣や城内に置き去りにされていました。しかしながら、どうもそれらが有効に利用されなか ったようであります。かえってその莫大な分捕り品に満足してしまい、歓迎する市民と一緒になり 酒を飲み長岡甚句を踊った人も多かったようです。長岡藩兵は、お城の奪還ですべての力を使い果 たしてしまったようなところもあります。
河井継之助の計画では、奪還した後には西軍を速やかに追撃するというものだったようですが、東 軍の各藩の連携が悪いこともあり、それも出来ませんでした。
また、山県襲撃計画もあったようで、長岡藩士田嶋は、西軍を装って山県有朋の宿舎まで行き、斬 ろうとして惜しくも失敗しています。
 しかしながら、この日の戦闘で、以後の戦いにもっとも大きい影響を与えたのは河井継之助の負 傷です。強烈な個性で長岡藩と東軍を事実上引っ張ってきた、その中心人物が重傷を受けて、戦線 に立てなくなったのです。河井継之助は、率先垂範型のリーダーですので、こういう危険性は常に ありました。
山県有朋も「越の山風」で「この日、河井継之助が重傷を負い、後ち遂に之が為に死するに至りた るは、実に敵兵の為めに大打撃たりしを疑わず。」と書いています。
 長岡城奪還から4日後の7月29日、西軍の総攻撃があり長岡城は再び落城します。 

参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社

00/12/30(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)


11675/11676 QYK10262 春秋 RE^7:雑談 河井継之助 北越戦8 (15) 01/01/02 09:57 11647へのコメント

 負傷した河井継之助は、昌福寺の藩の病院へ移り、それ以後は長岡藩の指揮を採っていません。
川島や三間等も継之助の身を案じて、あまり戦況については報告しなかったようで、また、河井 継之助もどういう訳かあえてこれを深く聞きませんでした。これまで、自信満々で強烈に長岡藩 をリードしてきた継之助が、膝の負傷によって何故こうなるのでしょうか? たとえ膝を負傷し たとしても、戦況を詳しく聞き、それによって的確な指示をする事は出来るハズです。しかしな がら、指揮権を投げ出したような格好になっています。
この疑問に、「愛想河井継之助」(中島欣也著)は以下のように答えています。
 まず医師に継之助の被弾状況を話して、病名を聞いたところ「菌血症(膿血症・敗血症)で、 化膿の痛みは翌日から」と言われます。継之助の負傷時は、多量の出血があったそうで、負傷直 後は普通の人なら耐えられない激痛と出血多量に苦しんでいたのは間違いない。これが為に指揮 できなかった。
しかし、ただそれだけのことではないと推論しています。
河井継之助は、長岡城奪還で長岡藩の武士道は天下に示した。すべてを犠牲にしてまでも、守る べきものがあり、そういうものがあれば長岡は立ち直れると、彼は信じて戦ってきた。しかし、 現実に多くの人の血と涙を見て見てみると、その現実には苦悩に身を苛まれることが多く葛藤が あったのでしょう。そのような時のこの負傷により、これまで多くの人を死なしてきたが、これ でおれもようやくあれらの処へ行くことが出来る。そして、それは長岡をこのように導いてきた 自分が当然負うべきものである、と考えたのだろう。
そんな自分が、これから息があるうちにやるべきことは、戦うことではなく、長岡がどのように 戦後を迎えるかを考えることだろう、と思ったのではないか、と。
 皆さんはどのように思われるでしょうか?

01/1/2(Tue) QYK10262 春秋(はるあき)



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