雑談 河井継之助

只見


11701/11701 QYK10262 春秋 雑談 河井継之助 只見 (15) 01/01/04 00:53

 7月29日長岡城が再落城した日、前回栃尾方面への退却に際して通った森立峠はいち早く西軍 に押さえられたため、河井継之助一行は見附に退きます。
松蔵は、移動の際に継之助の負傷した足に負担が掛からないように、駕籠を担架のように改良し ました。
河井継之助は、足の傷が化膿したための高熱と耐え難い激痛により、半狂乱状態になることもあ りました。そのような時には、「おれを長岡へ置いて行け、おれは長岡で死ぬ」と叫び一行を困 らせました。
 この日、長岡藩の婦女子が見附や栃尾に集まり、取り返した長岡城下へ向かおうとしていまし た。夫や息子等家族の安否を気遣い、生死を確かめ、負傷した者の手当をしよと思ってのことで した。5月の落城以来、家族の生死を案じつつ不自由な山の中の生活に耐えてきた人々です。人 里離れた村で、慣れない百姓のような格好をして、逃亡生活を続けてきたのです。ようやく、そ の苦労が報われ、やっと長岡へ帰れるようになったのです。嬉しさで生き生きとし、久しぶりに 化粧までした人もおり、華やいでいました。
しかしながら惨いことに、そんなところに長岡城の再落城の知らせが届いたのです。絶望と落胆 の大きさに、気力もなくなってしまったことでしょう。 河井継之助は、長岡城奪還が成功した 際には、会津いる藩主へその旨報告しました。藩主・前藩主はその知らせを聞くと大変喜び、前 藩主は「年寄」と「全藩士」に対して直ちに感状を書き使者に託しました。しかしこの使者が長 岡へ戻ろうとしたときには、西軍が既に道を塞いでおり、やむなく会津へ引き返しますが、その 時には長岡城は再び西軍の手に落ちていたのでした。
 8月1日河井継之助一行は、葎谷に着きます。長岡藩兵はここへ集結し部隊の再編成をしてい ます。

参考 「河井継之助の生涯」安藤英男著
   「長岡城奪還」稲川明雄著
   「愛想河井継之助」中島欣也著

01/1/3(Wed) QYK10262 春秋


11731/11731 QYK10262 春秋 RE:雑談 河井継之助 只見2 (15) 01/01/07 01:24 11701へのコメント

 8月1日、症状が落ち着いたためでしょうかこの日、河井継之助は絶筆となる手紙を、義理の 兄の梛野嘉兵衛宛の手紙を書きました。義兄の梛野氏は、この時に会津若松へ藩主と供に行って います。宛名は義兄ですが、その内容は藩主・前藩主への、今までの経過報告と謝罪を兼ねたも のになっています。

「河井継之助」(安藤英男著、新人物往来社)より、その大意を書きます。
まず、奥羽越後の状態を考えるとこのような長対陣は、藩の財政も破綻し、又、兵士もつまらぬ 局地戦で損耗して更に困難な状態になってしまうため、一大決心をして24日の夜八丁沖を潜行し て長岡城下へ討ち入りました。敵は大変狼狽して、敵の銃器や弾丸等多量の分捕り品があり一同 大喜びしました。
しかし私は、この戦でスネの中骨を折られ、27日にいったん昌福寺病院へ移りました。一同尽力 してきましたが、今になっては新発田藩の内応等については、未練になりますので申しません。
今回は免れ得ない大乱ですので、不義として汚名を後世に残すよりは、義理を守って行動すべき ですが、自分の責任でその志を達成できずに無念です。このことを、よろしく両殿様へお伝え下 さい。
私は最早、ご奉公することは出来なくなりました。また、苦痛のあまり山を越えることもできま せん。死生は、自分の手を放れています。(いったんここで日付を書き手紙を終えるが、更に以 下を続けています。)

 私は城中で討ち死にするのを思いとどまり、葎谷まで来たのは、長岡奪還の際に敵が冬用の衣 服までも置いて逃げていったため、西軍はこの地に留まれないと思ったからです。しかしながら、 見附まで来て戦況を見ていたところところ、思わぬ状況になってしまいました(新潟の陥落によ り、東軍諸藩の兵が次々に自分の藩へ引き上げてしまいます)。
戸板に伏している状態ですので、文章が乱れていると思いますが、ご了解下さい。

01/1/6(Sat) QYK10262 春秋(はるあき)


11736/11736 QYK10262 春秋 RE^2:雑談 河井継之助 只見3 (15) 01/01/07 11:56 11731へのコメント

 8月3日河井継之助一行は、吉ヶ平まで行きます。ここから先は八十里峠になります。八十里 峠は、その距離は8里であるが道は険しく1里が10里に相当するほどの険しい道なので、この名 前が付いたと言われます。この峠を越えれば、そこはもう会津になります。
ここまで来たときに、継之助はこれ以上先には行かないと、言い出します。
「進退は義を以てすべきも」と云う信念に基づく行為とはいえ、長岡の町を焼き焼土とし、多く の藩士を死なせのは、自分である。更に、長岡の町を西軍に奪われたのも、その責任は自分にあ り、それらの諸々の責任は自分が負わなければならないものである。今さら、どの面を下げて会 津へ行けようか、行ったとて、藩主に会わせる顔はないではないか。・・等と云う思いからなの でしょう。
強情な継之助ですから、一行の人々が色々なだめますが、「会津へ行ったとて、何もいいことが ない。おれは行かない。置いて行け。」と同行者を困らせます。その為、吉ヶ平で1泊すること になります。この傷では自分は、もう奉公もできないので、長岡領内で死ぬことが、継之助の頭 を占めていたのだろうと思います。
遅れてきた、三間市之進(長岡落城の際には、もっとも困難な持ち場を持ちました)が懸命の説 得をして、翌日の4日にようやく進むことになります。
しかし、傷はますます悪化していきます。4日は、峠の途中で泊まることになり、5日にようや く会津領の只見に着きました。
この八十里峠越えの途中で、継之助が一つの句を作ります。

「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」

継之助の、無念の思いと自嘲の思いが込められているようです。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著 新人物往来社

01/1/7(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


11738/11738 QYK10262 春秋 RE^3:雑談 河井継之助 只見4 (15) 01/01/07 16:15 11736へのコメント

 八十里越えの難所のちょうど半ばほどに、鞍掛峠があります。継之助と同じように、東軍兵 士やその家族等が会津へ落ちていった後に、東軍の殿軍がここに留まり、二十日あまりもの間 この地を守り、西軍を一兵たりとも通さなかった一隊があります。長尾藩の第一大隊長の、山 本帯刀の率いる隊でありますが、長岡藩の3つの小隊と少数の会津兵が参加していました。 「戊辰朝日山」(中島欣也著)では、この部隊について「戊辰戦史」(大山柏博士著)より引 用していますが、以下にそのまま書きます。
「この山本隊は八月二十五日ごろまで守っていたが、いかにして約一ヶ月近くも持ちこたえた のか。人家とて一軒もなく、最も近い入叶津の部落でさえ、十一キロの山道を隔てている。兵 器、弾薬は携行量だけとしても、糧食の補給はどうしたのか。叶津附近の寒村ではとうてい調 達できそうもない。遠く山道を、会津若松から補給したものか。その辺の事情が全くわかって いない。」
この山本隊は、八月23日に白河口の西軍が会津城下に突入したことを知ったその日の八月25日 に鞍掛峠を下りて、27日に柳津に到着し、休む間もなく戦線に就きます。

 この後、この部隊の部隊長の山本帯刀は九月八日の飯寺の戦闘により、西軍に捕らえられま す。更に、3名の小隊長が全て戦死あるいは捕らえられており、全滅のような状態でした。
捕らえられた山本は、西軍から朝廷に抵抗した罪の糾問を受けた際には毅然として、次のよう に答えます(「戊辰朝日山」中島欣也著より引用)。
「わが藩は徳川氏と久しく君臣の義を結び、譜代の恩顧を受けてまいった藩でござる。その徳 川氏が謹慎恭順の態度をとっているにもかかわらず、これを討てといわるるは必ず朝廷の真意 にあらず。中間に明徳を曲げて号令せしものがあるによる。わが藩もとより朝廷に抗するの意 は露ほどもござらぬが、かかる事態の中で、徳川氏の廃亡を座して見過ごすに忍びず、藩を挙 げてたち、今日に至った次第でござる。」
また、降伏すれば助命すると勧められた際にも、「藩主に戦いを命ぜられたのは、知っていま すが、降伏を命ぜられたのは知りません。」と言い、処刑されます。

01/1/7(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


11749/11749 QYK10262 春秋 RE^4:雑談 河井継之助 只見5 (15) 01/01/08 03:14 11738へのコメント

 5日に只見村へ着きましたが、継之助の負傷した足は赤く膨れて、激しい痛みと高熱に悩ま されます。とても会津へ移動できる状態ではありません。
一行はやむなく、ここに12日まで過ごすことになります。
この時に、継之助の容態を聞いた藩主は深く心配し、会津へ来ていた幕府の医師松本良順へ治 療に行ってもらうように依頼しました。おそらく会津へ必ず帰るようにとの説得も、依頼した と思います。松本良順は、快く引き受け早速只見へ向かいます。
継之助と会った彼は、早速傷を見ますが、既に手遅れだったのでしょう。特に、治療らしいこ とはしなかったと言います。継之助の具合も良かったのでしょう。二人は、旧知のように話し たと云われ、継之助も上機嫌でした。松本良順が、手みやげとして持ってきた牛肉のタタキを 美味しそうに食べます。牛肉に対しても、何の偏見も持っていません。
 また、とても再起できぬと思っていた継之助は、状態がよいときに花輪馨 之進に、今後の長岡藩のことを次のように指示します。
会津落城の後は、米沢藩ではなく庄内藩と行動をともにすること。
いずれ奥羽諸藩は敗れるので、その時には世子をフランスへ亡命させること。
自分が死んだら火葬にすること(これは松蔵へです)。
外山脩造へは商人になるように話し、福沢諭吉宛の紹介状を書いて渡します。
 具合の良いときには、意識はハッキリしていたのでしょう。同行の義兄根岸勝之進が、鳥モ チで蝿を捕るところを見ては、「根岸は蝿トリの名人だ。」等と言っています。この根岸勝之 進の長男が、根岸錬次郎で河井継之助の色々な著者・研究者として知られる安藤英男氏は、昭 和20年までは隣に住んでいたと云います。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
  「愛想河井継之助」中島欣也著

01/1/7(Sun) QYK10262 春秋(はるあき)


11751/11751 QYK10262 春秋 RE^5:雑談 河井継之助 只見6 (15) 01/01/08 10:45 11749へのコメント

 河井継之助は、松本良順の勧めもあったため、とにかく行けるところまでは行ってみようと 思い直し、一行(約20名)は会津へ向かい、8月12日塩沢の村医矢沢宗益の家に泊まることに なりました(移動距離は約8キロ)。
 13日は、朝5時前より具合が悪く、高熱を出しうわごとを云うようになったが、夕方になる と小水が通じ、その後落ち着いてきます。継之助は死ぬ直前まで、「この腰抜けが!」と自ら を鞭打ち、罵倒し、しっかりしようと強靱な意志の力を発揮したようです。
 14日は別状はないが、そうは言っても進むことは出来ません。この日継之助は、梨を食べた いと言い、松蔵が持ってきた梨を美味しそうに食べた。食べたのは1個だけで、それ以上は体 が受け付けません。「うまかったでや。こげんうまいナシ、残りをとっておくことはねえぞ。 皆にも食わしてやってくりゃえ」(愛想河井継之助より引用)と言います。
 15日、松蔵を呼び「松蔵や、長々介抱してくりゃって、ありがたかったでや。」と優しい声 で言い、死後は火葬にし今からその準備をするように言います。松蔵が、そんな気の弱いこと を仰らないでもっと元気を出すように頼むと、鋭い目つきで「お前の知ったことじゃねえ。準 備をしろというたら、準備しろ!」
言われた松蔵は、泣きながら徹夜で棺を作ります。継之助は自分の入る棺を見ていたと云いま す。
この15日には、会津では長岡藩主・前藩主の意を受けた、松本良順の計らいで2名の医師が、 急遽塩沢へ派遣されることになり、当日中に出立します。

参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
  「愛想河井継之助」中島欣也著 なお15日の会話部分は同書より引用し ました。

01/1/8(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)


11752/11752 QYK10262 春秋 RE^6:雑談 河井継之助 只見7 (15) 01/01/08 21:34 11751へのコメント

8月16日、河井継之助は出来上がった自分が入る棺桶と骨箱を見て、満足そうでした。そし て、午前中は談笑したりしましたが、午後になると昼寝をしたいと人を遠ざけ眠りました。そ のまま夕方になっても目覚めませんでした。意識不明の昏睡状態になっていたのでしょう。
この日午後8時頃、遂に帰らぬ人となりました。42才の短すぎる生涯でした。継之助が亡く なった時に、継之助の妻や父母は、高田藩お預けの身でした。
 継之助の遺体は、言いつけ通り只見川の河原で荼毘に付され、遺骨は17日会津へ向かいます。

 塩沢の村人達は、河井継之助を大事にしたようです。継之助の遺体を焼いた河原で、残され た継之助の細骨を拾い集め、医王寺に鄭重に葬りました。
医王寺にある継之助の墓は、墓碑銘のない祠のような形になっていますが、これは後に進駐し てくる新政府軍に悟られない為です。
また、河井継之助が亡くなった矢沢家の家は、昭和37年までそのまま残されていましたが、同 年のダム建設のために水没します。しかし、継之助の終焉の間はそのまま近くへ移築します。
現在は河井継之助記念館の中に、そのままの状態であります。
蛇足ながら、この記念館に私が行った時に「戊辰戦争の河井継之助」という簡単な本(P32) をここで買いました。家に帰ってからその本の発行者を見たところ、「河井継之助終焉の家跡 医師矢沢宗益末裔 矢沢大二」とあり感動しました。

  参考「河井継之助の生涯」安藤英男著
  「河井継之助のすべて」安藤英男編
  「愛想河井継之助」中島欣也著

  01/1/8(Mon) QYK10262 春秋(はるあき)



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