蒼龍窟史跡巡り3

1998年10月

 文武館花屋跡(継之助逗留地),水車跡(継之助逗留地),高梁市武家屋敷館
 頼久寺,備中松山城,三島中洲屋敷跡,山田方谷銅像(高梁市郷土資料館)
 松山藩藩札および方谷遺品(高梁文化交流館),方谷駅,山田方谷邸跡,見返りの榎木



今回は岡山に学会発表の機会を得ましたので,方谷の史跡を巡ってきました.発表後の疲れはどこへやら伯備線に飛び乗って,約1時間で備中高梁駅に到着です.今回の旅行ではその直前に大変良いガイドブックが発行されました. 外山氏の歴史現場から分かる河井継之助の真実というものです.この本片手にスーツ姿で史跡巡りをすることにしました.
 まず,文武館・花屋跡(写真左)へ行きました.33才の継之助は方谷の世話で水車に落ち着くまでここで過ごします.コカコーラの自動販売機と郵便局のポストの間に標注が立っていました.郵便局の斜め向には石碑もあり,”長州藩久坂玄瑞や河合継之助逗留”とある.#字が違うやん....継之助はここで会津藩土屋,秋月梯二郎らとも会ったらしい.
 この道を山の方へ短大横をすり抜けて進むと,御茶屋(塵壺では”水車”と呼んでいる)跡(写真右)があります.この標識はしかし実際とは違うところに立っているようです.私が見たときには犬のトイレと化していました(^^;;).継之助はこの水車で自炊生活をしていたそうです.33才の7月から翌年の3月までというから,ここから方谷邸までの山道を毎日のように通ったのでしょう.
 また,来た道を少し戻り,頼久寺の第2駐車場から門前に抜け,方谷塾(午麗舎)跡に歩いていく途中に外山氏の本にも紹介してある武家屋敷(写真左、裏庭より撮影)がありました.この屋敷は150石取りの武士の旧宅と言うことなので,長岡の継之助邸とほぼ同じと考えることが出来るそうです.その観点から見ると庭の松と良い,継之助が彷彿されました.
 この屋敷を一回りした後,方谷塾,中洲邸跡を見ました.中洲邸跡の横にふと目を遣ると,”松山城遊歩道”と楽しげに書いてあります.遊歩にひかれて,松山城目指して歩いてみることにしました.しかし,歩けど歩けど細い山道です.途中で山登りフル装備の格好をしたカップルとすれ違ったときやっと後悔したのでした.デジカメと外山氏の本を下げたスーツ姿のオッサンと山奥で出会ったのですから,向こうも驚いた事でしょう.途中,台風で木が倒れ道をふさいでいる箇所(写真右)もあり,谷に落ちそうになりながら,歩くこと1時間やっとふいご峠の駐車場に着きました.”ついたー!”と思ったのですが,そこから更に天守閣に行くまでに20分かかりました.

 天守閣では案内の方が大いに同情して下され,麦茶を何杯もごちそうして下さいました.それはさておき,備中松山城は最後の老中板倉勝静の居城で数少ない現存天守閣の一つです.城内には持久戦に備えての囲炉裏,城が落ちるときに自害する間など,当時を垣間見た気持ちになりました.天守閣から高梁駅が遙か彼方に見えました.良く歩いたものだと思いました.
 備中松山城は一時浅野家が城主となり,忠臣蔵の大石が城の受け取りに来たそうです.この辺の話は来年の大河であるのでしょうか.
 城からはタクシーを呼び,郷土資料館(写真下左)へ行きました.#タクシーの運転手の方にも,山登りの話は大笑いされました.郷土資料館へ向かったのは方谷関係の資料を見るためです.郷土資料館前には方谷の銅像が建っています.しばし眺めていると,郷土資料館の方が”方谷さんの研究家の方ですか”と声をかけてきました.”趣味です”と答えると,資料館・図書館には方谷関係の史料は今はないことを教えて下さいました.史料は駅を挟んで反対側の文化交流館の方に移されているそうです.つまり,郷土資料館・図書館には方谷関係のものは銅像のみということになります.行かれる方は気をつけましょう.

 タクシーの通りもないので,交流館まで歩くことにしました.駅までさしかかるとニヤニヤこちらを見ている視線があります.先程山を下りた時に乗ったタクシーの運転手さんでした.”高梁市に歩きに来られたのか”と冗談を言われ,からかわれついでに,交流館まで乗せてもらいました.
 交流館では山田方谷の書,硯の他,”峠”でも紹介されている藩札があります.ある時方谷は藩札が発行されすぎて,信用が薄いと気づき,回収して,銀と引き替え,民の前で焼き払います.それ以後藩札の信用はあがったと言います.
 交流館では普通この高梁市の歴史のコーナは無料開放されているのですが,この時はちょうど清水比庵の歌碑展をやっており,これを抜けなければ,そのコーナーには行けませんでした.崩した暖かな清水の書と方谷の書は対照的な感じがしました.
 備中高梁駅から2つ駅を移動すると,方谷駅に到着します.継之助が言ったようにまるで箱の底のようでした.駅のホームの向かい側に方谷の開墾屋敷跡(写真右:ホームより撮影)があります.開墾屋敷跡にいくにはホームを下りて,線路をわたって,行かなければ行けないようです.方谷の屋敷跡がちょうど対面のホームのようになっているのです.
 ここから,見返りの榎木(写真右)を見ることができます.容易に人を尊敬することがない継之助が生涯で最初で最後に土下座して,伏し拝んだ場所だそうです.
 駅はもう無人であると外山氏の本にはありましたが,駅守のおばちゃんがいました.小荷物預かり所の中で赤い大きな布を一生懸命ミシンがけしています.呼んでも反応してくれません.しかし,切符を買わないと,岡山に戻れないので,ガラス戸をたたくとやっと気付いてくれました.岡山までの切符と記念に一番近い駅までの切符を買うと,”どこからきたんかね”とたずねられました.しかし,返事を待たずに”近頃は新幹線があるからねえ”とにやりと笑い,ミシンの元に去っていきました.
 駅には1時間に1本しか電車が来ません.おばちゃんも私の存在は忘れたらしく,ミシン掛けに没頭しています.駅と横を流れる川は既に山陰になっており,山の縁に日が見えます.(写真左:箱の底のような地形なので、もう日は落ちている)おそらく,同じ景色を継之助も目にしたのであろうと思いつつ,山々をゆっくりと眺めました.

1997年10月

 継之助邸跡(長岡),継之助の墓(栄涼寺),長岡藩本陣跡(摂田屋)
 河井継之助開戦決意の碑(青島町),米百俵の群像(ハイブ長岡)

1995年11月

 河井記念館(只見町),継之助の墓(只見町),春日山城(上越)
 蒼柴神社(長岡),悠久山公園(長岡),栄涼寺(長岡)
 米百俵の碑(長岡),大黒古戦場(長岡),慈眼寺(小千谷)


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