蒼龍窟史跡巡り

只見,上越,長岡,備中松山,丸亀と旅してきました.

1999年8月 長岡

 悠久山,蒼紫神社,妙見神社,榎峠,栄涼寺,昌福寺,慈眼寺

 京都から雷鳥・北陸に乗り換えて,長岡へ柿崎柏崎間の車窓の夕日に感動する. 日本海に沈む夕日というのはなんとも壮観である.(写真左)
 長岡のビジネスホテルにチェックインを済ませるとすぐさま繁華街へ出か ける.”長岡藩”という居酒屋へ行く.入ってみて,成る程と思ったのは, ”長岡藩”というからには幕末好きの頑固親父の店というイメージだが, はたして感じのよいおかみさんの店であった.入るまではなかなか勇気の いる店構えである.”河井継之助ファンも結構こられます.ここはまだ城 の敷地内なのですよ”と幕末話にもやさしく応じてくれる.山本五十六と 継之助によって,長岡は2度焼かれたのだと言うおかみさんに”それでは 虎三郎人気がわかる気がします”というと,にっこりほほえまられた. コンビニエンスストアの場所を帰りに尋ねると,”何を買われるです?” といわれるので,”水です”とこたえると,コンビニエンスストアの 地図と一緒にお店の水をワインの瓶に詰めてお土産にもたしてくれた. 他のお客が”懲りずにまたおいで”という.継之助の予言ではないが, 商人の街である.なんともいえないすがすがしさを感じた.


 長岡では五・十の市というのがあって,”米百俵の碑”のある通りで行 われている.朝早い時間にのぞいたため,蜂蜜うりの親父サンしかいない. 遠くを見つめ,風景の一部と化しているようである.少しのぞいて,すぐに 長岡駅のほうへ歩く.長岡城はちょうど長岡駅西口のあったあたりに本丸が あったらしい.二の丸は碑がホテルのそばに立っていた.長岡城奪還のと きにはこのあたりは激戦地であったのである.悠久山へ継之助がのがれて 火の出るような目をしていたことを思い出す.
 長岡駅東口からバスに乗り悠久山をめざす.若い女性が大変多く同乗し ていたので,継之助ファンが夏休みを利用して旅行しているのかと期待して いたが,悠久山公園のほとんど敷地内にたっている風景不釣合いな短大への 通学生であった.
 桜並木でくの字に続く蒼柴神社参道の石ダタミをゆっくりと歩く.競技場 と短大が視界から消えると,大木がそびえ立つ.足元が滑りやすくなる.木立 の薄暗さの向こうに本堂が日を浴びているのが見える.本堂手前の薄暗さの 中に山本帯刀の碑(右上)が立っている.帯刀の碑に行くには,参道のはずれに降り なければならない.降りるとすぐに長岡藩刀隊槍隊の碑がある.薄暗さと侵食 で小林虎三郎の撰文は読み取りづらい.その脇の抜けて,山道をしばらく行 くと帯刀の碑がある.薄暗いので草の丈は伸びていないが,生い茂っている. しばらく,人は訪れていないのではないだろうか.しげしげと見つめる. 会津での悲劇が目に浮かんでくる.それを思い出させる周りの雰囲気である.
 それとは対照的に小林病翁の碑は木漏れ日がうまい具合にあたっていた. そこから見下ろす位置に土俵がある.人材育成を唱えた病翁に見守られて,子 供たちが相撲を取るのだろうか.
 蒼柴神社を参拝し,継之助の墓と帯刀の墓へ行く(左写真).花がそなえてある.総督 河井継之助と言う文字が見えるように右に寄せられている.牧野家歴代御霊廟 をぐるりとまわり,河井継之助の碑へ向かう.三島の撰文を目を凝らして読む. ここへ来て,はじめて晴れていたことに気づく.今まで長岡に来ると必ず雨が 降っていた.郷土資料館の背景が始めて青空であった.(右写真)
 長岡駅に戻って,蕎麦屋へ行き,へぎそばと天ぷらを暴食する.土産用にも十 人分ぐらい買ってしまう.
 夜は懇親会に参加する.四国から参加した人と談笑をする.早朝,史跡まわりを した話と継之助の話をすると,それとあなたの専門はどういう関係があるのか と聞かれる.興ざめてしまい,関係なしと答える.


 午前で仕事が終わったので,妙見神社へ行く.ここは長岡に対して最前線の丘 であり,西軍の陣地があったところである.ちょうど同じバス停で降りた親子に 行き方をたずねる.案内看板が何も立っていないのである.妙見神社の丘の南に榎 峠があり,その南に朝日山がある.南に行くに従いだんだん高くなる.妙見神社のほ うに歩いていくがやはり案内板らしきのもはない.石段がかすかに見えた(左写真)ので, 通り掛かりの野良仕事がえりのおじいさんにあの石段の先に神社があるのかを聞くと, ”そうらしいねえ”というあまり興味のある反応ではない.やはり大木が生い茂り 薄暗くなった急な石段にはこけが生え,あまり人が通った形跡はないが,頂上は開 けており,展望台や滑り台がある.展望台からは長岡市街が一望できる.まさに, 西軍の拠点をここに置いたということは喉元にナイフを突きつけたようなもの であったのだなあと思った.(右写真)
 山を降りると,上り口で山水の取出し口のまわりをきれいに掃除しているご婦人 たちがいた.”どうぞどうぞ”とすすめられるままに,水をいただいた.最近天気が よくて湧き水が少ないそうで,水がたまるのに時間がかかったが,大変冷たい水で あった.
 ここで,司馬さんの文学碑か榎峠に行くか迷った挙句,榎峠のほうが距離的に近 いことを知り,榎峠まで歩く.歩道はなく,トラックが猛スピードで横を通りすぎる. 歩いているものは誰一人いない.榎峠の碑までついてデジタルカメラを取り出すと, カメラが2つに割れてしまっていた.撮影をあきらめて,峠に行く道が通れないかさ ぐるが,雑草が生い茂り無理.この榎峠の碑,案内図自体も雑草に覆われ始めている. カメラが壊れた原因を考えていると雨が降り始めた.”帰れ”ということか.そう 思い,小千谷はあきらめて,長岡に帰る.
 ホテルへデジカメ内蔵のパソコンを取りに戻り,栄涼寺へ.前回,継之助の墓に来 ると雨が降り出し,その前は突然,雹,が降った.そのことを思い出しながら,栄涼 寺の中を歩く.継之助の墓はきれいにされていた.夏休みと言うこともあり,多くの人 が訪れたものと思われる.継之助邸跡まで戻るとやはり雨が降り始める.雨にぬれなが ら,継之助のことを思った.


 ついに雨となる.雨を長岡に来ると逃れることができない.
 昌福寺へ(左写真).ここは継之助負傷時に運ばれたところと言うから,長岡城(つまり駅)からかなり離れたところと思っていたが,意外と近かった.昌福寺は長岡空襲時に身元がわからない人々を合同葬議したところと言う認識のほうが高いようである.雨にぬれる墓標を大変重々しく感じた.
 駅裏のダイエーを抜けると急に林となり,この林を横切ると博物館にたどり着くことができる.しかし,博物館はカギがかかっており,人気がない.”見たい方は母屋に連絡を”とある.商人商人したまちの長岡でなんと商売っ気のないことであろうか.
母屋の呼び鈴をおすと,何とも気品のある管理人さんが出てこられ,博物館を案内してくれた.博物館はかなり充実している.継之助の書も2点ほど有り,すべて本物である.もともとは公開せず,親しい人にしか見せていなかったそうである.蔵を改造して作られたそうだが,ゆっくり落ち着いて本物が見られるというのがいい.管理人さんに丁寧にお礼を言い,そこを辞した.大変良い気分であった.
 長岡駅まで戻ると観光案内所へ行き,小千谷行きのバスを訪ねる.慈眼寺への道順をFAXで取り寄せてくれ,見学予約までしてくださった.FAXを待っている間,妙見神社から榎峠まで歩いたことなどを話すと,若い案内員さんは素直に感動して下さった.ここでも,継之助らの話をしたが,やはり,長岡の街は継之助が焼き払い,虎三郎が基礎を築いたという認識を強く感じた.しかし,長岡の人はそこで断絶が生じているわけではない.精神的には連続性があり,その点で継之助を英雄と感じることができるのだと思った.
 そのまま,バスに飛び乗り,小千谷へ向かう.
 慈眼寺(右写真)では和尚さんは留守であった.和尚さんとはお会いしたことがないので,一度お目にかかりたいのだが,誠に残念である.会見の間はいつ来ても心が引き締まる.ノートブックを眺める.外山氏の本の宣伝のほか,自分が前に来たときの署名を見つける.小千谷会談で継之助がここに座っているときのことを思うと非常に無念さを感じる.人生において,どうしようもならないことはたくさんある.どうにもならなかったが,継之助はこの国の民族に今でも厚みを与えつづけている.そう思うと継之助の肖像が少しだけ優しげに見えた.


1999年8月 継之助の足跡

 丸亀市街,丸亀城,金比羅

1998年10月 山田方谷関連

 文武館花屋跡(継之助逗留地),水車跡(継之助逗留地),高梁市武家屋敷館
 頼久寺,備中松山城,三島中洲屋敷跡,山田方谷銅像(高梁市郷土資料館)
 松山藩藩札および方谷遺品(高梁文化交流館),方谷駅,山田方谷邸跡,見返りの榎木

1997年10月 長岡,開戦まで

 継之助邸跡(長岡),継之助の墓(栄涼寺),長岡藩本陣跡(摂田屋)
 河井継之助開戦決意の碑(青島町),米百俵の群像(ハイブ長岡)

1995年11月 長岡・只見

 河井記念館(只見町),継之助の墓(只見町),春日山城(上越)
 蒼柴神社(長岡),悠久山公園(長岡),栄涼寺(長岡)
 米百俵の碑(長岡),大黒古戦場(長岡),慈眼寺(小千谷)


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