四境戦争(第2次長州征伐)・大島口の戦いの幕府軍上陸地点に立てられた公園である.明治100年を記念して整備されたので明治100年記念公園(写真左)という.上陸の前々日に40発,前日にさらに40発の大砲がこの久賀の町に打ち込まれて,幕府軍が上陸したそうである.幕軍2000名が上陸.大村益次郎の作戦により「大島は捨てましょう」との方針であったため,占領される.この時,山口の藩庁に徹夜で早馬を出して,談判を行った人物が大州鉄然である.鉄然は学問の他,砲術・剣術に通じていたと言われている.彼についてはまた後述する.
右は伊藤惣兵衛の碑である.彼は僧月性らと尊攘論を唱え,文久3年には下関攘夷戦で高杉を助けている.また,元治元年に大州鉄然らと真武隊(第2奇兵隊の基となった隊)を結成し,藩の俗論党と対する.四境戦争が起きると伊勢神宮に詣でるが,帰路大阪にて病に冒されて永眠する.
左は倉敷事件犠牲者の碑である.第2奇兵隊小隊長立石孫一郎が座して幕軍の来襲をまつよりは打って出るべしと備中倉敷官署を屠る.立石の倉敷代官への恨みによりこの挙に出たと碑文にはある.立石の隊は本隊との挟撃を受け,隊士たちは本隊に自首してくる.隊員らはただ小隊長の命に従ったのみであるので,郷土の人々は死罪は哀れであると萩に行き救おうとするが,斬首が確定してしまう.そこで大州鉄然が中心となり彼らの霊を慰めようと精忠不朽の碑を刑が執行されたこの場所に建石して,刑についた人々の名が記されている.
右は四境の役 戦死者の碑である.郷土を守るために幕府軍に立ち向かって,命をなくされた地元の18名をたたえたものである.説明してくれる河合さんを囲んだ子供たちを撮影した.大島口の戦いで占領されたわけであるが,世良修蔵の率いる第二奇兵隊の来援や高杉晋作の奇襲を契機に山岳兵を制した.戦闘は主に山で行われたそうである.また,山頂には大砲が備え付けられ,足りない分は釣り鐘を大砲に見立てて設置したと言うことだ.幕府軍は逃走する直前に再上陸して,農家の鶏を盗んだり,牛を屠殺し,わめく住民は柱に縛り付けて放火して逃げたそうである.この地の民家1000余戸消失したそうである.
左は楢崎剛十郎の碑である.楢崎はこの地に生まれ,第2奇兵隊作りに尽力し,参謀として活躍するが,隊の中に暴動が起きたとき,なだめ役の中心となって働いたが,聞き入られず不幸にも銃で撲殺されてしまう.
右は覚法寺である.大州鉄然の生誕の地である.彼は郷土を協力して守ろうと呼びかけ,郡内の壮士を集め真武隊を編成し,武技を調練する.彼は九州に道場を開いていたほどの腕前である.第2奇兵隊の編成にも務め,その参謀となり運営に当たるが,兄の死去により,住職となり辞す.四境戦争のときの話は前述したが,四境戦争により彼の寺は全焼してしまう.そこで寺総代から寺再建を申し出たところ,将来のことを考えると寺よりも築港が大切であると,寺再建資金を全て築港に充てる.また,神道以外の宗教廃止の動きがあった際も奔走し,現在の仏教のかたちが残ることに尽力もしたそうである.彼は郷土の誇りになっているといっていい.
以上は大島町教育委員会が主催する小学生を対象とした史跡巡りの会に参加させて頂き,見聞させて頂いたものである.説明をして頂いた河合氏に深謝する.河合氏が郷土でどんなことがあったのか知ることが重要であり,歴史の恵沢の上に我々が生きているのだと小学生たちに語っているのが印象的であった.